3月13−22日に開催される『大阪アジアン映画祭2009』で、ヤスミン・アーマッド(Yasmin Ahmad)監督の「Muallaf(邦題:ムアラフ 改心)」が上映される。
同作の上映は、昨年の東京国際映画祭で審査員特別賞(スペシャル・メンション)を受賞して以来。
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また、ヤスミン監督の出世作である「Sepet(邦題:細い目)」も、3月14日(土)・15日(日)に赤坂・OAGホールにて開催される、国際交流基金主催のアジア映画ベストセレクションにて上映がされる。
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「おくりびと」がアカデミー賞外国映画部門賞を獲ったニュースで、テーマもさることながらエンターティメント性も評価されていた様子。
「Sepet」は、東京国際映画祭で「多民族国家の共生の道を示した」なんて堅苦しいテーマが受賞理由になっていたけれど、監督本人は“ただの恋愛映画”とケロリと言い切っいる。
恋愛モノのエンターティメント性を楽しむために再鑑賞するもの一興かな。
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今、ASTROでSHORT FILM AWARDS観てます。
・・・ほとんど歌番組状態で、
この気になるSHORT FILMをペナンのどこで見ればいいのよぉ!
と一人で昼からワインを飲みながらブツブツ言ってます。
酔ったついでに、1つ質問をしていいですか?
なぜにYasmin監督は、
そんなに評価されるのでしょうか?
このマレーシアで、すばらしい監督だというのは理解できます。
そして『見る側をある位置まで持ち上げてくれる作品を、撮り続けている』
と思っています。
けれど、1作品だけでも、もっとある側面を大切にするならば、
マレーシア的な作品は別にあると思うんです。
もっと言えば、Yasumin監督は決してマレーシアではないとも。
最近、映画を観るたび思うんです。
同じこと。
こんなお話し日本語で出来る方いないので・・・すみません。
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Sayaさん、書き込みありがとございます。
もし、Sayaさんの言葉が「決してマレーシアではないとも」が、マレーシアに在住し、日々暮らしながら感じている“マレーシア”ではないという意味なばらボクも同感です。
また、評価とはちょっと違いますけれど、彼女の作品が“多民族国家”や“共生”というキーワードで語られることにも違和感も感じますね。
確かにヤスミン作品は、マレーシアの実像でも表現されていることが本音でもないと感じますよね。Sayaさんも、そういったある意味では非現実的な部分にもどかしさを感じているひとりなのかな。
ボクも『Muallaf』のように宗教、宗教、宗教だと、ストーリーは現実味なんかを通り越していると思います。いくら宗教があるからといって、現代社会でそこまで宗教で人生を縛っている人もいないだろうと思ってしまう。
ボク自身がヤスミン作品の好き嫌いを問われれば、「Sepet」や「Muallaf」は、特に好きではないです。でも、「Gubra」は、決して交わることのない世界が平行して進んでいくことが、マレーシアを感じるかな。
もしかしたら中華系監督(Teck Tan)から描いたマレーと華人の恋愛を描いた「Spinning Gasing」という作品を観たら、ヤスミン作品のもどかしさを感じる人には溜飲が下がるかもしれません。(01年ぐらいの作品だから入手が難しいかも)
的外れな答えだったでしょうか。
もうひと付け加えると、ヤスミン監督は会って話してみると、人が好きで仕方がない(決してポーズだけの人当たりのよさや感じのよさとは種類がことなる)感じをうけて、会う人を魅了する女性なんですね。
海外の映画界や映画祭関係者に受けがいいのも当然かなという印象を受けました。
それは別として、まだマレーシアの映画人自身が、海外に向けて何がマレーシア映画であるのかを発信するレベルまで達していないこともヤスミン監督ばかりが注目される理由なのかも。
でも、日本の映画関係者のヤスミン好きは、なんだか同じアジア人として彼女の評価者でなければいけないという意識がちと強すぎるかな、とも感じますね。