7月25日、脳溢血で急逝したヤスミン・アーマッド(Yasmin Ahmad)監督(享年51歳)。
当地では、彼女を偲ぶ記事が連日メディアに流れ、あらためて彼女の存在と功績の大きさを感じる。また、彼女の死というひとつのマレーシアでのニュースが、ネット上のマレーシアとアジア映画に関する日本語媒体にこれだけ広く取り上げられたことも未曾有の出来事だった。
大いなる喪失感を埋めるために、力が及ばないかもしれないが、やはり彼女について書き記しておきたい。
広告会社のクリエイティブ・ディレクターだったヤスミン・アーマッドの名を一躍有名にしたのは、当地では05年に公開された『Sepet』(邦題:細い目)だった。それまで彼女は、国営石油会社ペトロナスの企業イメージCMや、テレビ・ドラマ『Rabun』(03、邦題:ラブン)03)を制作してきたが、一般のマレーシア人と海外の映画ファンが彼女を知ったのは『Sepet』である。
マレー系少女オーキッドと中華系の海賊盤映画の売り子の恋愛を描いた同作は、主役に有名なキャストの起用もなく、インディーズ映画であったにもかかわらず、商業作品でヒットといえるRM200万の興行成績を上げて話題になる。同作は、翌05年7月の第18回マレーシア映画祭で、RM2千万という破格の予算で制作された歴史ロマン『Puetri Gunung Ledang(レダン山の王女)』の4賞を上回る最優秀作品賞を含む6部門で賞を獲得し、映画界を席巻する。
04年から05年にかけては、いわゆるマレー映画(マレー語語主体のマレーシア映画)も盛況で、『Puetri〜』をはじめ、女性監督スハイミ・ババ(Shuhaimi Baba)による『Pontianak Harum Sundal Malam』などヒット作も公開され、50年代から60年代にP.ラムリー(P. Ramlee)による黄金時代を迎えて以来の映画産業の興隆の兆しが見え始めた時代だった。
当時は、そういったメインストリームのマレー映画の好調にひっぱられて、「インディーズからこういう作品も出るようになった」ことで話題になっていた観がある。一般のマレーシア人にとって同作は「いままでありそうでなかった」作品という受け止め方のほうが大きかった。また、些細な描写にケチをつけるか、マレー系と中華系の恋愛を描くなどケシカランという頭ごなしの批判といえない非難も聞こえた。
しかし、後述していくように目の肥えた海外の映画通の見方は、違った。
同作は、フランスでのクレテリ国際女性映画賞で金賞を獲得したほか、同年10月の第18回東京国際映画祭で、アジアの風部門の最優秀賞を獲得し、一躍マレーシア映画の顔となる。04年には、ホー・ユーハン監督の『霧』やジェームス・リー監督の『美しい洗濯機』など、インディーズ作品が国際映画祭で話題を呼び、にわかにマレーシア人監督作品が注目を集め、“マレーシアン・ニュー・ウェーブ”と称されるようになる。
マレーシアン・ニュー・ウェーブ誕生の背景には、アジア全体の映画産業が好調であり、またアンディ・ラオ出資の映画制作プロジェクトなど、若い映画監督を活気付かせたことがある。ハリウッド映画産業が、アジア映画を高額なリメイク権で買い取ることなど、世界市場への門戸が開かれた時期だった。また、マレーシアに関して言えば、23年の長期にわたるマハティール政権が終焉し、表現の自由に関する重苦しさが和らぐ期待感も遠因にあったのではないかと察する。
06年、ヤスミン監督は、『Sepet』に続きオーキッドを主人公にした『Gubra』(邦題:グブラ)を発表。同作も第19回マレーシア映画祭で、2年連続の最優秀賞を獲得。そして、第19回東京国際映画祭は、ヤスミン監督の最新作『Mukhsin』(邦題:ムクシン)の世界初上映を含む『マレーシア新潮』の特集が組まれることになる。
オーキッドが10歳のときの初恋を描いた『Mukhsin』は、07年2月に行なわれた世界三大映画祭のひとつであるベルリン映画祭で、子供をテーマにした作品部門Kinderfilmfest International JuryグランプリとGeneration K-Plus部門でクリスタル・ベアー・スペシャル・メンションの2賞を受賞した。やはり、東京国際映画祭でのヤスミン監督の高評価は、日本もアジアの国の一部(というより、主導役か)としてアジアの才能との関係を大事にしたいという意図もあると思うが、ベルリン映画祭での評価は真に世界を感動させたと言ってもよい出来事だった。ヤスミン監督が同作の上映後、見終わった人から「世界は、まだ大丈夫だ」と言ってもらったことが嬉しかったと語っているが、ヤスミン作品の本質について、これ以上のシンプルで力強い評価の言葉もないだろう。
同年には、オーキッドを演じたシャリファ・アマニを主演にした『Muallaf』が完成。ちなみにボクも当時マレーシアに在住し、『Sumo Lah(相撲ら)』を制作した窪田道博氏のご好意で監督自身が開いた試写会に同席させてもらった。同作は、08年10月の第21回東京国際映画祭で邦題『Muallaf:改心』として上映され、審査員特別賞(スペシャル・メンション)を獲得する。ちなみに同作は、地元マレーシアでは未公開。監督自身、いつか宗教をテーマにした作品を作りたいとの願いが実ったのが同作であり、一番知りたかったはずのマレーシア人の反応を知ることなく、彼女は逝ってしまった。
話が前後するが、同年5月、ヤスミン監督製作の独立50周年を祝うペトロナス社の企業イメージCM『Tan Hong Ming In Love(タン・ホンミン・イン・ラブ)』が、世界的権威であるニューヨーク広告業界クラブ賞で金賞を受賞。6月には、カンヌ広告祭で金獅子賞を受賞するなど、CM制作でもでも名を馳せる。
小学生のタン・ホンミン君が、心を寄せるのは、同級生のマレー人の女の子と告白する小編。未来を担う無垢なマレーシア人の心には、民族の違いなどないことをみせてくれた。
また、08年には、祖母が日本人である自身のルーツをテーマにした『ワスレナグサ(Forget-Me-Not)』の制作が日本と共同で行なわれることが明らかにされた。言うまでもないが、彼女の命が同作の完成を待たなかたことが惜まれる。古い世代が『怪傑ハリマオ』でマラヤを連想することが、『ワスレナグサ』に取って代わる現象が起きたかもしれない。
09年に入って5作目の『Talentime』(邦題:タレンタイム)が、地元で公開。今年の東京国際映画祭でも上映が予告されていた。
『Sepet』の公開から数えて、ヤスミンの時代はわずか4年余り。
この短い期間に彼女は、過去のマレーシア映画人が手にすることさえ夢にもみなかった賞を獲得し、同時にマレーシア映画の知名度を劇的に高めた。そして同時代に生きる日本人にも彼女の作品が高い関心が集まり、そして愛されていることも、前例のない出来事である。
「冴えない、ダルい、先が読める」の3拍子揃った90年代の停滞したマレーシア映画を知るボクのような人間は、彼女の生きた最後の4年に起こった変化の大きさに正直言って、何も理解していなかったように思う。彼女の死もさることながら、彼女の偉業も現実感を伴わない出来事として、あっという間に通過していってしまった。
次回は、表現者としてのヤスミン監督に触れていこうと思う。