最近のコメントは、やっぱり故ヤスミン・アーマッド(Yasmin Ahmad)監督に関する話題が多いので、もう少し彼女に関連付けて映画の話題を書いてみようと思う。
ヤスミン作品には、必ず登場人物を宗教という文脈で描いている部分があるのだけれども、最近のマレー語映画も宗教(イスラム教)がストーリに絡んでくる作品が多い。
昨今のイスラム教がらみの作品を引き合いに出しながら、ヤスミン監督が描いた宗教と根本的に違う部分があることを書いていこうと思う。
04年12月、ヤスミン監督が『Sepet』(邦題:細い目)の国内上映の申請のために検閲当局で上映会を開いたときに検閲官からこんな質問にさらされた。
「なぜ、宗教に関する説明を持ち込まなかったのか?」
「なぜ、彼女(オーキッド)は、彼(ジェイソン)に改宗を求めなかったの。マレー人はその方を好むのに」
要するに当局としては、映画は「イスラム教の道義を教えるテキストであるべき」と言いたいのだろう。映画も芸術である以上、監督は権威におもねることなく、作品で自分の表現をするものだ。もちろん、映画は商売である側面もあるので、完全には監督の物でもないし、マレーシアで映画を公開したいならば、ある程度の倫理規範は守るべきであるのもわかる。
それでも人々が娯楽を求めてお金を払って観に行く映画で、「正しいイスラム教徒はこうあるべき」と語らなければいけない、というのも筋違いな話。説法ならばほかに専門家がいくらでもいる。
検閲当局は、「あまり宗教的でないイスラム教徒」が、最後に割を喰ったり、宗教に目覚める的な予定調和のストーリーならば、安心する様子だ。もともと、マレー系には、信賞必罰のパターンや教訓めいた結論がないストーリーでないと溜飲が下がらない傾向もあるが…。
また、ヤスミン作品では『Gubra』でもモスク守(モスクの管理をしている宗教識者)が、「犬の頭を撫でた」ことや「売春婦と知りながら親しくしている」ことに対して、批判する人がいた。
本欄10月25日の記述で引用した東京国際映画祭で来日したピート・ティオ(Pete Teo)のインタビューのなかで「マレー映画が右寄りなっている」と語ていたが、ことにイスラム教に関することは、当局者も一般の人も鵜の目鷹の目でアラ捜しをしている空気があるのも本当だ。
さて、今年のマレーシア映画祭で8賞にノミネートされた『Maut』(09年1月公開)は、まさに“イスラム教テキスト作品”だった。同作は3部作構成で、第2話に白人と結婚し宗教を忘れた女性の話、第3話にブラック・メタルにのめり込み、哀れな死を迎える男の話が語られている。
特に第2話の女性は、旦那が浮気したショックで倒れ、飲酒した罪を悔いながら、地獄の業火に焼かれるまがまがしい想像のシーンが登場する。ちなみにこの作品、プロダクションもしっかりしていて、この地獄のシーンの視覚効果は逸品で、本当に目を背けたくなる出来だ。
第3話の男は、ブラック・メタル=悪魔崇拝=反宗教者、という図式の設定。まぁ、実際当地で悪魔崇拝の儀式を行なっていた少年少女たちが、ブラック・メタルの愛聴していたことが騒動になって、社会的にブラック・メタル狩りも起きたが、あまりにも安直な設定だ。この男、老人にコーランを信じない、と言い放ち、結果的に交通事故に遭って死ぬのだが、墓は何度埋めても陥没し、備えた花も枯れるという哀れすぎる結末を迎える。
同作の監督は、バデ・ハジ・アズミ(Bade Hj. Azmi)という人。過去にバイオレンス・アクション作『Castello』を撮った人で、こんな説教じみたストーリーに取り組むとは思わなかった。
映画界一のヒット・メーカーとなったアーマッド・イダム(Ahmad Idham)監督のラブコメ作『Syurga Cinta』(09年5月公開)は、長い外国暮らしを終えて帰国した青年が、宗教的な女性教師にアタックするために宗教にも明るく、賢い弟の助けを借りて、恋を成就させるストーリー。青年が女性教師の気を惹くために宗教を学び始めるけなげさをしっかりエンタメに仕上げているのは、アイデアとしてアリだと思う。
でも、やっぱり宗教を忘れると怖いぞ、というシーンが出てくる。
最後にヤスミン監督がブログで「マレーシア映画で最も明るい閃光」と一押しした『Buda Kelantan』(08年10月公開)について話していこう。
この作品は、登場人物の同郷の級友が、宗教や道義で真反対であるという設定。
幼馴染で、今は大学生とチンピラとなっている2人が、クアラルンプールで邂逅したが、お互いの生活を知るにつれ、その距離の違いに愕然とする。
大学生は、宗教的な土地柄ケランタン州で育ったこともあり、お祈りを欠かさない。チンピラは、家出少女を輪姦して、売り飛ばしたりと悪にどっぷりと漬かっている。ちなみにこのチンピラを演じているアスルルファイザル・カマルザマン(Asrulfaizal Kamarzaman)って俳優、この作品がデビューだが、マレー映画史上にない悪人の雰囲気を醸し出している。逸材なのかもしれない。
チンピラは、街で通りがかりの女性に手を出そうとする。しかし、その女性が同郷の大学生の恋人であることをしり、そのことを女性に謝ろうと何度も試みる。大学生は、悪人であっても幼馴染のチンピラと、その謝罪を拒絶する恋人の間に挟まれ、葛藤する。
この作品でも結末としてチンピラは死ぬのだが、「宗教的でないから死んでも仕方ない」という持っていき方ではなくて、こんなダニのような男にも流儀と純情があったというという結末だ。
ヤスミン監督が具体的にこの作品のどこを絶賛しているかは、今となってはわからない。おそらく、果敢にもチンピラたちの悪行を生々しく描いた部分なのだろうが、この作品は宗教的か否かという尺度だけで、人間と人生を描いていない部分も大きいのではないか。
ヤスミン監督が描く宗教は、「許し」という根幹的な部分の美しさと優しさだ。
『Gubra』では、売春婦が宗教的に恥じである存在だから不遇を迎えるなど、といったストーリではない。『Muallah』(邦題:ムアラフ−改心)では、ロハニ姉妹を探す父親が、飲酒をするなどの描写があるが、その是非自体はまったくストーリーとは無縁だ。
宗教を持ち出した正悪や道義というで規範では、とらえどころない人間と、どう生きるべきという答えのない人生を描けない。それに非イスラム教徒にも共感を得られる作品にはならない。
ヤスミン監督は、そのことを知っていた表現者だからゆえ、国境と人種を越えたのだと思う。