「チーム・ロータス」は、1958年にコーリン・チャップマンが設立したF1チーム名である。「ロータス・ルノー」は、黒と金の塗装を施したマシンの写真を公開しており、ナイジェル・マンセルやアイルトン・セナがデビューした黄金期の復活を思わせるチームだ。
そもそも10年シーズンに参戦した「ロータス・レーシング」は、マレーシアの企業連合が支援する「1・マレーシア・レーシング・チーム」が運営母体。企業連合といっても、実質は資金力があり、代表となったトニー氏がコントロールしている観が強い。
トニー氏は、ロータスの名を使用するに当たって、同じマレーシア企業であるプロトン社から名称の使用許可を得ていた。その際、トニー氏もプロトン社も「チーム・ロータス」が、第3者であるデービッド・ハント氏が所有していたことは認識しており、F1でのエントリー名は「ロータス・F1」とした。
今年の半ばに入って、プロトン傘下のグループ・ロータスが、GP2カテゴリーでロータスを復活させる意向があり、トニー氏側に許可を取り消す通達をしたと見られる。対してトニー氏は、9月に「チーム・ロータス」の名称を所有するハント氏から名称権を得たと発表する。
しかし、グループ・ロータス側は、トニー氏の主張に異議を唱え、12月にプロトン社がルノー・チームの株式を買い取り、「ロータス・ルノー」として今シーズン参戦することを表明した。
以上が2つのロータスが出現した経緯だ。
ここで当然の疑問として浮上するのが、なぜ同じマレーシア人・企業どうしで、争わなければならなかったのか。ここに絡んでいるのが、グループ・ロータスCEOのダニー・バハー氏。バハー氏は、09年にフェラーリの副社長からヘッドハントされた人で、今年のパリのモーターショーでは、5車種ものコンセプトモデルを発表し、ロータスの新時代を演出したなかなかのやり手だ。
今回、話がややこしくなっているのは、バハー氏がトニー氏の動きに強行に反対したからなのだ。
個人的には、乗りかけた船であるトニー氏に「チーム・ロータス」をあきらめろというのも酷な話だとも思うし、バハー氏がビジネスとしてのロータスの本丸として、「チーム・ロータス」にこだわるのもわかる気がするので、どちらが正しいかは判断しかねない。
現在、名称権については、ロンドン高等裁判所で係争中である。結果的にロータスを用いるチームが1つになろうとも、2になろうともコアなレース・ファンは、94年に破綻したロータスの母体を引き継ぎ、英国F3で活動しているライトスピード・F3・チームこそ正統なロータスだと見るの向きが多い。
そういう人たちの目には、トニー氏もプロトン社もブランドをカネで欲しがる田舎モノと映るだろう。
もうひとつ述べておきたいのは、プロトン社の立場から。
たいして海外市場も広くないプロトン社にとって、ロータス・F1へは、傘下のロータスの宣伝活動のためでしかなかったはずである。マシンのロゴの小ささから察するに資金的には、あまり拠出していだろう。
しかし、新生ロータス・ルノーには、5年間で4億8千ポンド(23億7000万リンギット=約630億円)拠出するという。新聞記事によるとプロトン社の今年9月までの現金や換金可能な証券の総額は、12億リンギット(約319億円)ほどだという。プロトン社では、資金はグループ・ロータス側から出ると説明しているが、とても身の丈にあった額とは思えない。
現地メディアの報道では、ロータス車の販売台数は、年間1,500台ほど。プロトン社では、それを5,000台に伸ばしたい意向だ。同じ高級スポーツカー市場で、フェラーリが年間6,000台ほどというから、かなり高いハードルだ。また、プロトン社は、アジア・パシフィック・ラリー選手権(APRC)に参戦しているロータスの技術を導入したサトリアR3のベースモデル、サトリア・ネオを海外草の根レーサー市場に売り込んでいる。日本でも150-160万円程度の格安なベース車両として販売が開始されている。
こうみてきても、プロトンのF1への投資は、大きな賭けであり、バハー氏に振り回されてはいないのか。
今回の名称騒動は、マレーシア企業の評判を落とすことにならないか。
2つのロータスにマレーシア・マネーが分散されて、結果としてF1と言うスポーツに何も残さないで終わるのか。
心配な話ばかりである。
マレーシアGP(グランプリ)は、セパン国際サーキットで3回目の開催となった01年から開幕第2戦目が定位置となっているのだが、ここ数年開幕戦のオーストラリアGPから2週連続開催で、ちょっと重要度が落ちてしまった。
05年のマレーシアGPは、開幕戦のオーストラリアGPとの間隔が2週間あり、熱帯の暑さになれるために早めにマレーシア入りをするドライバーもいた。
皇帝シューマッハもその一人で、ランカウイ島など人目につきやすい場所ではなく、東海岸トレンガヌ州のドゥングン地区にあるひっそりとした隠れ家リゾートを休息の場に選んだ。
自然豊かなトレンガヌ州は、そのころから映画俳優ジャッキー・チェンらなどアジア・セレブがお忍びで訪れることも多かった。シューマッハの所属していた当時のフェラーリの代表、ジャン・トッド氏の恋人が、国際的映画女優ミッシェル・ヨーだったことなんかも、トレンガヌ州がセレブが羽を休める場所として密かな人気をえたことと関係があると思われる。
ドゥングン地区で世界的VIPが泊まれる場所といえば、タンジュン・ジャラ・リゾートしかないわけで、そこで聞いたある日のシューマッハの姿。
ジムでのトレーニングやサイクリングなどスポーツ選手として、いつも体を動かしていたというのは、大して驚く話でもないのだが、シューマッハはハーレーを借りて乗り回していたとのこと。もう、クルマだけでなく、バイクも根っから好きなのだ。
ただ、シューマッハは、ノーヘルで乗りたいとゴネたそうだが、ホテルのアクティビティー担当者が、「あなたみたいな有名人が、法を破っている姿が人目につき、噂になるのはよくない」との説得に折れたそうだ。
まぁ、レーサーを目指す若い人へのメッセージを求められ、「公道ではレースしないこと」とシューマッハは、有名人として模範解答しているのを聞いたことがあるので、無茶はしなかったようだ。
サッカー好きでも知られるシューマッハは、地元のチームを集めて、自らも参加し、試合を楽しんだそうだ。
その際にチームにユニフォームがなかったので、シューマッハが2000リンギット(6万円弱)を渡して、Tシャツを買いに走らせたという逸話が残っている。
なにしろ田舎なんで、2000リンギットでも、「おぉー」となったようだ。
しかし、05年シーズンはフェラーリとシューマッハにとって、我慢の年だった。
シューマッハは、F1史上最も観客を侮辱した事件として記憶に残っているミシュラン・タイヤ勢14台出走ボイコット事件の起きたアメリカGPでの1勝のみで、00年から5年連続で防衛してきた年間王者のタイトルをフェルナンド・アロンゾ(当時、ルノー)に明け渡すことになった。
それでも、マレーシアGPはシューマッハにとって、初開催99年に骨折による戦線離脱から復帰したGPだったので、悪い印象はないのではないか。
それにしても、トレンガヌの休日でのシューマッハ、とっぴな行動や悪い評判などなく、健康的な姿の話ばかりだった。(フィンランド人のM.H.は、アル中だとか、シューマッハの元チームのだったE.I.は、女狂いだ、など、やっぱり評判はたってしまうものだ)
なので、きっと来季は3年のブランクを感じさせない走りを見せてくれるものと思う次第だ。