今年で三回目になりますが、毎年のように遠く鹿児島や北海道からの参加もあり、六本木の癒しの店「薩摩おごじょ」に20人ほど集まりました。懐かしい味や焼酎に浸りながら、夕方から夜にかけ、それに飽きたらず明朝まで飲んで食べてしゃべくって。さすがにこの年になるとオールは堪えますが、幼なじみと一緒にいると時間の経つのは忘れます。
このメンバーになると、一挙に小学校・中学校の自分たちに戻りますね。来年も今から楽しみです。
往路の飛行機からパノラマのように映し出される霧島連山・桜島・開聞岳に、磯庭園から臨む桜島。倒れそうになりながらも登頂した宮之浦岳頂上から見渡す荘厳な雲海、今にも手が届きそうな大川の滝。タイムスリップしたかのような原生林や、天の川のごとく細かい星をまき散らしたような海岸線。
自然を堪能するに充分過ぎるほどの旅でした。
さて、今回の主目的である宮之浦岳。
初登山の僕にとって、山に挑むということがこんなにも困難なことかと思い知らされた一日でした。なにせ、最初の10分で「はたして生きて帰れるんか??」と、くじけそうになるくらいでしたから…。
登れど登れど頂上は見えてきません。視界が開けたかと思えば、また下り。いったい、いくつの峰を越えたのか。ラスト30分は、気合いだけでどうにか山頂にたどり着きました。
頂上でワタルが作ってくれたインスタントラーメンの、なんとうまかったこと!
しかし、地獄は下山時に口を開けて待ちかまえていました。山登りは下山の方がきついことは知識として認識してはいたのですが、これほどまでに辛いとは考えてもいませんでした。
とにかく、ヒザがいうことを聞いてくれない。少しでも曲げると激痛が走る。最初は右足だけだった痛みも、途中から左足にも転移し、一歩を踏み出すことすら躊躇してしまいます。しかし、生還するためにはヒザを使ってなんとしても歩かなくてはならない。ストックに全体重をかけ、場所によっては身体の向きを変えて地面に這いつくばりながら、ヨチヨチ歩きで進みます。無様な格好と思いながらも、そうしなければ前へ進むことができないんです。
予定時間を軽く2時間オーバーし、やっとの思いで登山口に戻った頃には、完全に日は落ちていました。
リーダー兼ガイド役のワタルと、ずっと静かに見守ってくれた徳さんがいてくれなかったら、絶対に不可能な登山でした。文句一つ言わず、カメのような僕のペースに合わせて歩いてくれた二人には心から感謝しています。本当に、ありがとう。
]]> 今回の主な目的は屋久島登山。標高1936mの、九州一高い宮之浦岳に挑みます。
小学校の修学旅行(霧島の高千穂)以来、登山らしい登山はやったことがありませんが、屋久島はぜひ一度訪れてみたいと思っていた島です。
ずいぶん前から、AISA社長のワタル氏と「いつか屋久島に行きたいなぁ」みたいな話をしていたんですが、先日飲んでいたときに、「んじゃ、この10月に行こう!」と酒の勢いで話がまとまり、その場で航空券を予約。無事(?)実現の運びになりました。
これに、昔からお世話になっている「しらとく邦楽器」の徳さんもぜひ行きたいということで加わり、三人での珍道中になります。
15日夕方に屋久島着、翌16日に登山、17日に鹿児島市内へ戻ります。
それ以降は、また友人連中との飲ン方(飲み会)三昧っす。
しかし、一番の心配は、なんといっても雨、、、。
とてつもない雨男どころか台風まで呼んでしまう僕としては、今回だけはなんとか食い止めたいところですが…。あとの二人が極端な晴れ男なので、どうやら今のところはおさまりそうな感じですが、これで鹿児島に着いた途端に雨になったら、何を言われることやら…。
ということで、また来週〜。しっかり桜島と西郷どんに挨拶してきますねー。
]]>30年の間にはみんなそれぞれに人生があったことでしょうが、この一瞬はみんな”その時”に戻れるんだね。ありがとう!
]]> こうして、今夏の大きなイベントは幕を閉じた。
いつものことながら、羽田から浜松町へ向かうモノレールでは、なんとも言えずセンチメンタルな気持ちに打ちひしがれる。それが日常へ戻ることへの安堵感なのか、故郷を離れた寂しさなのか、よくわからない。また、それが気持ちいいのかよくないのかさえもわからない。
以前は飛行機に一切乗らず新幹線で帰省していたので、それなりの時間の経過と共に感傷は和らいでいたのだが、飛行機はごく短い時間に別世界に踏み込むので、気持ちの切り替えには多少の時間を要する。ただ今回は、みやげを渡すと称して友人とそのまま飲みに行ったので、その感傷が比較的早めに薄れていったのは幸いだったかもしれない。
生まれ育った故郷があるということ、故郷の友人がいるということを、今回の帰省ほどありがたく感じたことはない。それは年のせいなのかもしれないが、ある種の誇りのようなものでもあり、逆に田舎者の戯言かもしれない。
しかしながら、少なくとも「ほっ」としつつ、大切なものを見つけたような気がした数日間であったことは確かだ。
※1:はかまごし/桜島側のフェリー乗り場。
※2:間に合わないかもしれないよー(って、これくらいはわかりますよね)。
※3:鹿児島県の地図を見て頂くとわかると思いますが、桜島は錦江湾周辺のどこからでも見えるので、大隅半島をひたすら北上しても桜島が見えているうちは空港はまだまだ先なのです。
※4:それじゃぁね、ありがとうね(…って、これもわかりますよね)。
次の日は特に予定もなかったので、一日どう過ごすかを、二日酔いのボ〜ッとした頭で考えた。桜島に渡ってふるさと温泉でも行こうかとか、黎明館で涼みながら歴史を楽しもうかとか、思い巡らすもののなんとなく腰が上がらない。
朝食後、ふとホテルのフロントを見てみると市内観光バスのパンフが目にとまった。東京にいてもはとバスに乗ったことがないように、鹿児島にいた頃も観光バスでちゃんとしたコースを回ったことがない。時間的にもいい感じだし、これにしよう決め、西駅…もとい中央駅に向かった。
バスに乗り込んだものの、お客さんはほとんどおらず、全部で10人ほど。気分的にもゆったりできそうだ。
こういうベタな観光は、自分から馴染んでいかないとつまらないと思い、ガイドさんの話も真剣に聞きながら、市内の名所を巡る。
維新ふるさと館
出発してすぐ、維新ふるさと館で幕末〜維新にかけての立体パフォーマンスを見たあと、ザビエル公園・照国神社・鶴丸城跡・西郷どん・薩摩義士碑をバスの中からのぞき、城山展望台で桜島と市内を一望。西郷洞窟を経たのち、西南戦争で散った魂達の冥福を南州墓地で祈る。そして仙厳園(磯庭園)と隣接する尚古集成館ではちょっと長めに観覧し、桜島桟橋前を回って天文館で下車。
しめて3時間30分。ざっと見ただけだが、それでもけっこう充実感はあった。観光バスも乗ってみるもんだ。
それにしても、南州墓地って行ったことがあったんだろうか?小中学校の遠足で行ってるはずなんだが、覚えがない。それだけに、西郷どん初め、桐野利明・篠原国幹・村田新八ら、諸将の墓石が新鮮だった。
あと、磯庭園は吉野台地のちょうど下に位置するのでけっこう遊びに行っていたが、集成館に入ったのは始めてだったので、もっとじっくり見たい気もした。
しかしながら、ヒマつぶしにしては、なにげに実入りの多い市内観光だった。西郷どん達と最後まで戦った5人兄弟の逸話とか、鶴丸城跡には根を広げた珍しい種類の木が石垣にへばりついてるとか、熟知しているようでも意外と知らなかったことってけっこうあるものだ。「へーそうなんだー」と感心しながら、今更ながらだけど得した気分になった。今度帰省したら、また別のコースに乗ってみようかな。
そして夜は、鹿児島到着時から毎日のように世話になっている高校時代の友人Fとしっぽり飲ン方。心地いい疲れと共に、鹿児島最後の夜は静かに、あくまでも静かに、終わった。。。
この日の感激は、おそらく一生忘れないだろう。実際、戻ってからもしばらくはその余韻が抜けず、さっそく関東在住の同クラスの連中で飲ン方を行なった。
30人ほどの幹事さん達の苦労はいかばかりだっただろうか。後日作ってくれたHPを見るにつけ、当日の、そして当時の感動と思い出が蘇る。心より感謝の気持ちを捧げたい。ありがとう!
この日にもらった力と夢は、その後の僕の日常を勇気づけてくれているよ。
※1:「君は誰だったっけ?」「○○だよ。わからないの!」「ええーっ!? わからなかったよー。太ったねぇ」
※2:「竹馬を作って遊んだよねー」「そうそう、君の家の裏山で竹を切ってきてさー」
よせばいいのに、ふと、卒業以来踏み込んでいない通学路を歩いてみたくなった。友人の墓は、その途中にある。小道に入って、しばらくは身体が覚えているらしく快調に進む。しかし、5分ほど歩いたところでハタと足が止まった。どっちだったっけ???
なにしろ30年ぶりだ。開発の波も押し寄せている。街道に近い大きな道だったらなんとなくわかるかもしれないが、新興住宅と昔ながらの旧家が入り乱れ、通学路である裏道はいっそう複雑になっている。
たしか20分も歩けば着くはずだが、迷えば迷うほど、同じ場所をグルグル廻っているばかり。しょうがなく、多少広めの道へ戻り、倍以上の時間をかけてようやく目的地に到着。「よいなこっ着いたどー(※)」と、肩で息を切らせながら友人に挨拶し、なんとか墓参りを済ます。さっき買った冷たいはずのお茶は、すでにぬるま湯を通り越して、泡だらけのよくわからない液体になっている。
今度は父の墓参りだが、中学校をはさんで正反対方向にあるので、ゆうに3kmはある。しかしながら、炎天下と二日酔いに空腹感も押し寄せ、すでに身体は極限状態。陽を遮るものがない信号待ちでは、クラクラしたので思わず座り込んだら吐き気がしてきた。「やべぇー。急性熱中症かぁ? 墓参りに来てあの世にいった日にゃぁシャレにもならんなぁ」とか、「日頃から運動しとけばよかったなぁ」とかいう、あまり意味のない反省が頭をよぎりながらも、立ちくらみを誤魔化しつつ体勢を立て直し、ゆっくりと歩き始める。
ついに吉野中に到着。正門の前に立つと、心地いい風が頬をかすめる。ここで3年間過ごしたんだ、あのときの友達と今日会えるんだと思うと、少しだけ生き返った思いになる。校庭の作りとかはずいぶん変わったものの、やっぱり母校。あちこちに昔の面影は残っている。校訓である「やればできる」の碑を見据えると、なぜか勇気が湧いてくる。
あとは父の墓参りを残すのみ、と思いきや、にわかに空模様が怪しくなる。「降れ、降れ、降ってくれー」というマジな雨乞いも天に届かず、お日様はすぐニンマリ。亀のような歩みで最後の力をふりしぼり、なんとか任務を終了。
さらに15分ほどかけて街道まで出て、たまたま通りがかったタクシーに倒れるように転がり込む。いったんホテルに戻り爆睡。何度目かの目覚ましで起きたのは、同窓会30分前だった。
※「やっと着いたよー」の意。
とんだ事件のおかげで時間を読み違え、帰りは渋滞にハマりまくった。なんとか夕方には市内へ戻り、T氏は打ち合わせがあるとかで、トンボ返りで南さつま市へ戻っていった。なになからなにまで本当にありがとう! おかげで、とっても充実した一日を過ごすことができたよ。
都会で過ごしていると、日々の喧噪に慣れきってしまい、あたかもそれが日常のあるべき姿だと思いこんでしまう。でも、ここ南さつま市は、町全体が穏やかで、ゆったりとした時が流れている。翌日にひかえた30年ぶりの同窓会を前に、置き忘れてきた大切なものを確かに思い出させてもらった。
夜は、高校時代のブラスバンド仲間と飲ン方!
男女問わず、先輩後輩問わず、10数人集まってワイワイと焼酎を飲みまくる。共に一生懸命打ち込んできた仲間だけに、話が尽きることがない。結局は昔話で盛り上がるのだが、それはそれでいい。20代の頃は、いつまでも過去の栄光を語る雰囲気がいやで、会うことをあえて避けていたが、この歳になると、それはそれで楽しいものだ。
それぞれがいろんなことをやってきた。それぞれがいろんなことをやろうとしている。そして、それぞれがいろんな悩みを持っている。でも、そんなことは全部、顔を一目見ればわかる。何を言わんとしているのか、世間話の中にかいま見られる。それが、故郷の友達だ。かけがえのない、僕の宝物だ。
]]>車は一路西へ。ほぼ海岸線に沿って走るが、片方は切り立った崖だ。途中、最近はあまり見かけなくなった石垣の段々畑を眺め、小さな港町に降りて潮風にあたる。
何艘かのヨットが停泊していたが、その内の一艘は石原裕次郎が最後に乗っていたものらしい。そういえば、日本テレビ「鉄腕ダッシュ」で一筆書き日本一周をやっているが、この道も通ったのだろうか?
再び走る。小島がいくつか見えてくる。鹿児島は、知覧や鹿屋といった軍事基地があり特攻隊の拠点になっていたが、なんと船にも特攻隊があり(いわゆる人間魚雷)、この島の一部に隠れるように工場が存在した。実際には発進されることなく終戦を迎えたが、GHQ指導のもと工場の破壊作業中に爆薬が暴発し、数人が犠牲になった。戦地での死ではなく、工場での、しかも戦後の国内での犠牲。あまりにもいたたまれない気持ちのまま、しばし沈黙が続く。
笠沙地域をほぼ一周し、再び加世田へ戻る。
14:00も回ってきたところでさすがに腹も減ってきたので、海辺らしく「ドライブイン大浦」という活魚料理の店に連れて行ってもらった。ドライブインというよりは、ちょっと大きめの居酒屋といった感じだ。さっそくお勧めの刺身定食を注文するが、定食にもれなくついてくる「カンパチのあら煮」ががこの店の名物だそうだ。15cmほどのアラで、パッと見た目は普通のアラと変わりない。が、一口食べてびっくり。うまい! これはうまい!
非常によくつけ込んであり、隅々までしっとり味がしみこんでいる。さらに驚いたことに、骨が口の中でとろけていく。つまり、身やゼラチンはもちろん、骨まで全て食べられるのだ。刺身ももちろんうまいのだが、このあらはぜひ一回は食すべし。