伊藤壇選手の所属するペナンは、5日(土)にパブリック・バンクと対戦する。
ここで、なぜ州の名前を冠した以外のMPPJやパブリック・バンクというチームがスーパーリーグ(MSL)の顔ぶれなのか解説しておこう。
セミプロ時代のリーグは82年にスタート。マレーシア13州+KLにブルネイ、シンガポールが参加していたという国の枠を超えたものだった。どのチームも1920、30年代からの歴史を持つチームだ。シンガポールが参戦していたことはナショナリズムの高揚もあり、この頃のサッカーの熱さに関してはアジアでも最高のレベルにあったといえる。
95年のプロ・リーグを目の前にした94年には、その熱さが八百長事件という陰の形で発露する事態となる。結局、両国のサッカー協会の事件関係者の処分の違いから、プロ化したMリーグにシンガポールが参加しないことになった。蛇足だが、この事件の負のインパクトは大きい。やはりシンガポールと切磋琢磨していたことがマレーシア・サッカーの発展になっていたことは否めない。
現在のリーグの原型の元となる変革は、98年から導入された2部制(プリミア・ワン、プリミア・トゥー)にFAM(マレーシア・サッカー協会)杯参加チームが参戦できる仕組みになったことだ。
FAM杯チームは、企業、コミュニティー、軍隊、警察など様々な団体によるもの。伝統ある15チームとの対戦が可能となり、FAM杯チームも資金的に余裕があればフルタイムでサッカーをするプロ集団を形成するようになった。
そしてパンドラの箱が開いた。
まず01年に2部リーグであるプリミア・トゥーでジョホールFCが優勝する。03年にもプリミア・トゥーでパブリック・バンクが優勝、そしてなによりも大きな事件は同年当地で一番伝統があるマレーシア杯の覇者にMPPJが名が加わったことだった。
MPPJは、名称こそプタリンジャヤ地区役所だが、首都圏の衛星都市としての豊富な税収をコミュニティー・プロジェクトの名でつぎ込んだチーム。また、パブリック・バンクも名称からは社会人セミプロをイメージするが、資金的に豊かなプロ集団だ。パブリック・バンクから2人、MPPJから1人がマレーシア代表メンバーになっている。要するにどんな団体でも資金とよいマネージメントがあれば、サッカーで名が挙げられる体制となったのである。
04年のリーグ変革により、上位リーグのMSL8チーム、その下にプリミア・リーグ12チーム、さらにその下にプリミア・クラブ選手権がある。この変革でMSLの上位リーグとしての性格が高まった。8チームに限定したことにより、実力差が接近し、ひとつとして容易な試合がなくなった。
そして、下位2位は容赦なく自動入れ替え。プリミア・リーグでも伝統ある州のプロ・チームが、一部セミプロも含まれるプリミア・クラブ選手権で戦わなくてはいけない事態もありうるのだ。
伊藤選手の戦うリーグは、20年代からの歴史を誇るマレーシア・サッカー界が威信の復活とレベルの向上のために選んだ下克上体制なのである。