今年に入り、赤羽にある焼肉ホルモンの繁盛店「いくどん赤羽店」を拠点に月イチでイベントのプラン&ディレクションを始めたものの、新型コロナウイルスの影響によって3月から中止になってしまった。十数年ぶりにイベント業界に戻ってきたと思ったら、いきなりのカウンターパンチで、「やっぱり、イベントは水もんなんだよな……」と改めて思った。
書籍や雑誌の仕事は、コロナ下でも何とか進行したものの、4月に入ると対面の取材は中止。電話のほかに、Zoom、Skype、Webex、LINEなどのデジタルツールを使ったオンライン取材に切り替わる。
それでも、まだプロジェクトが進行するものはましな方で、企業や大学などの広報に関する広告系は完璧にストップしてしまった。その一方、巣ごもり消費の影響なのか、通信販売は好調で、通信販売を手がける会社からはDMや販促物の制作依頼が前倒しできたりして、業種・業態だけでなく、「何を扱っているか」「どこで扱っているか」によって、かなり差が出ていることを身をもって感じたのが5月だった。
そんな頃、ノンフィクション作家の高野秀行さんとたまたまLINE電話でやりとりする機会があった。久しぶりに互いの近況を伝え合う。
確か、当時の僕は、持続化給付金の申請について身の回りのフリーランスの人たちに情報を伝えるようにしていて、そのやりとりの中でLINE電話になったのだと思う。一方の高野さんは、春から行くはずだった海外の取材がコロナのおかげで行くに行けず、感染爆発といってもよさそうな海外の感染者数の爆増を前に、取材どころかしばらく渡航も無理という状態だった。
お互い「困りましたねぇ」という情けない会話を糸口に、話はあっちへ飛び、こっちへ飛びしながら、最後、ふと思いついたのがイベントだった。
「高野さん、せっかくヒマになったんだし、オンラインでイベントしませんか?」
高野さんとは2004年の8月8日にやった「ミャンマー辺境映像祭」というイベントで出会った。詳細は割愛するが、成り行きで主催者になった私は、このニッチでコアなイベントを何とか形にすべく飛び回り、いろんな人たちに協力していただき、結果として120人ほどの辺境ファン、高野ファンの集まる場所につくりあげることができた。
その思い再び……。というわけではないけれど、以前から海外や地方に暮らす高野ファンから、「ぜひオンラインでもイベントを」といわれていた。
ひょっとしたら、これはいい機会かもしれない、互いにそう思ったのだと思う。
しばらくして、今度は本の雑誌社の杉江さんからLINE電話がかかってきた。要件は高野さんのオンラインイベントについてだった。
杉江さんは本の雑誌社の“炎の営業部長”でありながら、一銭の得にもならないのに高野さんのマネージャーも勤めている(最近は高野さん以外の作家さんからもマネージャー役を頼まれているらしい)。
さすがは杉江さん。高野さんと私が考えた“ザルに穴の開いたような”イベント運営プランの穴を埋めるだけでなく、どうしたら金銭的に継続可能な形に持って行けるかについて、熱く語ってくれた。すごい。これは3人で組んで始めたらちゃんと仕事になるかもしれない。杉江さんの電話を切ってそんなことを思った。
「石橋を叩いて渡る前に、すべての準備を済ませておく」
杉江さんは、まさにそんな感じでチャッチャと段取りを組み、初のオンラインイベントは6月14日(日)開催と決まった。イベントの値付けも散々悩んだ結果、「最初から正規の値段をいただくわけにはいかない」と、わざわざテスト版と明記した上で60%OFFに設定した。
イベント名も杉江さんの案で『高野秀行辺境チャンネル』に決まり、いつの間にかつくられたTwitterの公式アカウントからイベント情報が矢継ぎ早に発信されてていく。真の営業マンってこういう人たちなんだ……と、4年で営業マンから離脱した私は杉江さんの手腕にほれぼれしていた。しかも、フォロワー数が3万人近い高野さんのリツイート効果もあり、販売から9時間ほどで予定の定員数に達してしまった。これには杉江さんもぶったまげていた。
果たして当日。
AISAの“辺境スタジオ”に3人そろい、思いっきり三密状態で辺境チャンネル配信スタート。高野さんのトークは安定の面白さだったが、それに加えて、三人の掛け合いがさらに面白さに拍車をかけていたように思う。あっという間に2時間がたち、終演後、その場で行った打ち上げのビールのうまさと、オンラインイベントの手応えをつかんだ高揚感が強烈だった。
テスト版で概ね問題なく配信できたことから、次の回を「第1回」とし、高野さんの人気作でTBS系『クレイジージャーニー』にも取り上げられた『アヘン王国潜入記』をテーマにすえた。
一方、高野さんの話は安定の面白さなものの、オンラインイベント独特の進行に対する中だるみや、消化不良、視聴者が納得しやすい終わり方については大きな課題が残った。これは、トークについて台本がかっちり決まっていないことや、3人ともトークの素人であるがゆえに、事前の準備がきっちりできないことも影響していた。
高野さんが話すつもりでいることや、話したい内容を我々が事前に知ってしまうと、本番で“生のリアクション”はできない。そのため、あえて話の内容を決めすぎないようにしていた。これが裏目に出ていたのだ。
また、画面を見ただけでは「今、何の話題について話しているのか」わからないため、視覚的なインデックスの必要性も感じた。テレビのように、画面上に表示されるテロップや画像、ピクチャー・イン・ピクチャーと呼ばれる画面の中に画面が入れ子になったものなど、理想の配信の姿が思い浮かんだ。
高野・杉江・小林の3人の中で、IT・技術班を受け持った私は、映像の課題をクリアにすべく、ネットの海に潜った。コロナで慌ててオンラインイベントを始めた“にわか”に対してもネットは優しく、たくさんの情報があふれていた。
季節はすでに7月になっていた。
8月1日、高野秀行辺境チャンネルは3回目の配信を迎えた。
僕が映像編集に選んだのはOBS。オープン・ブロードキャスティング・システム、いわゆるフリーでみんなが使えるように開発が続けられているソフトだった。
事前にリハーサルも行い、つぶせるトラブルは可能な限り潰してのぞんだものの、まあいくつかは小さなエラーがあった。ただ、そのエラーを吹き飛ばすほど濃い中身になったことだけは間違いがない。
高野さんの発案によって、イベント構成を『コース料理』になぞらえて企画したのも功を奏した。
“前菜”で前回を振り返り、今回のテーマについて紹介。“スープ”で盛り上げて、“メインデッシュ”で一番おもしろいネタを投入。質疑応答を“デザート”とし、食後の“コーヒー”で締めて、次回の告知とエンディングという流れだ。
また、映像に文字がのり、視覚効果が生まれたことで、参加者と出演者の心の連携がそれまで以上にとれていたようにも思う。
第3回を終え、第4回は高野さんの作家としての転換期といえる『ワセダ三畳青春記』を題材にする。この本は、高野本の初期の代表作でたくさんのファンがいる本でもある。日本国内はもちろん、海外在住組からもチケット購入が続いている。
この本を、第3回に持ってきたことも、ある意味宿命というか、必然というような感じがする。
『ワセダ青春三畳記』を書くように強く進めた編集者、故 堀内倫子さんは、高野さんが本以外で文章を書くことを好まなかった。雑誌はもちろん、高野さんが一時期、自分の思いを吐き出すように書き込んでいたブログに対してもだ。
「タカノ君、文章が荒れるから、そんなところに書いちゃダメ!」
高野さんの才能に心底惚れきっていた彼女からすれば、高野さんにブログを書くことを勧め、そのブログを運営していた私は、邪魔な存在だったかもしれない。
しかし、そのブログがきっかけとなって読者が集う場ができ、本の告知の場となり、人の目に触れ、高野さんはテレビやラジオに出演する人気作家の道が開けていった。
そして今回。
コロナ渦のなか、なんとなく始めたオンラインイベントは、間違いなく、高野さんの「魅力を伝える新しい場所」になったと思う。
そこには杉江さんの細やかな気配りや、営業・告知活動はもちろん、微力ながら私の配信系のデジタル技術や知識も一役買っているかもしれない。
でも、それ以上に高野さん本人の魅力が、オンラインで余すところなく表現できていることが何よりも大きいと、私は思う。
この先、新型コロナウイルスの影響がどうなるかは、まったくわからないけれど、「高野秀行辺境チャンネル」が新しい高野ワールドの一つになったら、これ以上うれしいことはない。そして、高野さんや杉江さんたちと働く楽しみだけでなく、人と一緒に何かをつくる喜びを感じられることもまた、ありがたいことだと思っている。