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アジアンハートビート〜Asian Heart Beat〜 » 2009 » 10月

アジアンハートビート〜Asian Heart Beat〜


人の生き死にについて、ヤンゴンで思う

Posted in ミャンマー,麻生あかりのYANGON日記 by Asian Heart Beat on the 10月 6th, 2009

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最近友人の父が亡くなった。
友人の父に限らずミャンマーでは入院してその後亡くなる場合
あっという間である。
一言で言えば医療がまだまだ遅れていると言えるが、
お見舞いに行ったとき、粗末なベットに点滴というどこの国でも
同じような状況の病室を見、それから1ヶ月もしないうちに
亡くなったと言う事を聞いたときに、なぜか祖父を思い出した。

私の祖父は高齢で亡くなったがやはり呼吸器をつけて
最後には誰の事も判別できなくなっていた。
親類は私の父に尊厳死にするかどうかの選択を一任していたが、
一人の人の死をいくら息子だからと言って簡単に決められるものではない。
心では皆もういいよ・・・と思っていたかもしれないが、いざ決めるとなると
その決断の重さがずしりと肩にかかってくる。
私はその決断の重さを引き受けざるを得なかった父を真近に見ていたので
その息苦しいような重圧をよく覚えている。

恐らく、ミャンマーで亡くなる人の10人に7人は日本の医療では
回復の見込みがあると思われる。
医療ミスもしばしば起こるような事をよく聞く。
けれど・・・。子供のいる年齢になって初めて私は思うのである。
もし自分が年老いて入院せざるを得ないような状況になったときに
果たしてどちらが幸せなのか?
日本では恐らく高齢で亡くなった場合、家族の人に言葉を残して亡くなる様な死に方
はかなり少なくなっているのではないだろうか。
それに比べてミャンマーは、癌になってももう手遅れの場合が多く
家族も確実に覚悟する時間と本人にも家族との別離のための時間が残されるケースが多い。
医師も本人の意思でどうせ死ぬなら家で死にたい・・・と言う患者がいるとあっけないほどあっそう、と言う感じでそれ以上の無駄な努力をしようとはしない。
痴呆症の老人も見るのが稀だが、それは恐らくその前に何らかの病気で亡くなっているか、痴呆症になって長生きする人が少ないからではないかと思われる。

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人間の尊厳死。日本では今その話題がよくあがるが、ミャンマーでは人間の尊厳死を考える時間がないままに人が死んでいく。
時々私は本来これが自然なのではないだろうか、と思う。
高齢になって体を切り刻んで寿命をあと数年延ばすことの価値と、
そのまま眠るようにそれが寿命と家族と数ヶ月過ごす時の価値、一体どちらの価値が高いのだろうか?

確かに私の友人で子供も小さくまだ30代であっけなく亡くなってしまう人もいた。
そういう人の場合もしミャンマー以外の国だったら・・・と死を惜しむ気持ちがとても強かったし、もしそれなら自分の親だったら・・・どういう状況でもやはり長く生きてほしいと思ってしまうのが子供のエゴであろう。
けれどである。親になった私は今思う。
もし、私が歳を取って病院に入る場合、自分の子供の顔や夫の顔を忘れてしまいながら
生き続けるよりも、少し早くても病気になったのがこれが寿命だ、と思いたい。

私がこう書く事は恐らくとてもエゴイスティックで、
「じゃあ若いときに病気になった人はどうなんだ?」と言われると返す言葉もない。
ミャンマーの村では今でも乳幼児の死亡率がとても高く、私のベビーシッターの出身村では今でも10人に3人くらいしか成人しないそうである。
そういう点に目を向ければもちろん日本の医学は優れていてすばらしいのはいうまでもない。
でも・・・最近の私には自分や自分の親が歳をとってきたからであろう、
でも・・・と言う言葉が続くのである。

どちらがいいとはっきりと言う事はできない気がするのだ。
もしもこの先私がずっとミャンマーで暮らし、歳を取っていくならば、最後を迎えるときが来るならば・・・私はもしかするとミャンマーの地で死ぬ事を選んでしまうかもしれない。

ミャンマーで一番長く過ごした日本人の女性が数年前になくなった。
私はその人のお孫さんと親しいため、その祖母が言い残した事を偶然聞いた。
「死ぬなら、ミャンマーで死にたい。でも、骨は日本に埋めてくれ・・・」