新年早々なのだが、ちょっと暗い話題から始めなければいけない。
日本の新聞でも報道されている通り、カトリックとイスラムという2つ宗教の間で衝突が起きている。
先月当地で故ヤスミン・アーマッド(Yasmin Ahmad)監督の『Muallaf』が公開されたが、きっと彼女は天国で涙を流しているに違いない。
彼女が『Muallaf』を通して、一般のマレーシア人に残した最後のメッセージ。
それは、イスラム教徒の姉妹とカトリックの教師を通じた対話であった。
当地のカトリックとイスラムが、軋轢を生んでいる経緯を追っていこう。
きっかけは、昨年12月31日、高等裁判所が、カトリック系雑誌『ヘラルド』発行者が政府を相手取り、同誌でイスラム教徒の神を意味する「Allah」の使用条件を争った裁判で、同雑誌に「キリスト教徒への教育目的ならば使用可」との判決を出したことだ。
判決後、国内のイスラム教徒は、非イスラム教徒が「Allah」を使用することに猛反発した。
4日、政府とイスラム教団体は、同雑誌に対し上訴。6日には、司法長官が高等裁判所に対し、「Allah」の使用を可能とした判決の執行停止を命じた。原告であるヘラルド誌側も、反発への大きさを憂慮し、判決の執行停止について同意している。
しかしながら、7日までにヘラルド誌と高等裁判所のホームページがハッキングにより書き換えられる嫌がらせが起きた。また、8日の未明、クアラルンプール首都圏など4カ所の教会が、放火や火炎瓶で襲撃される事件が起きた。また、同日の礼拝後、全国10数カ所のモスクで抗議集会が行われた。
やはり一番分かりづらいのが、なぜ多くのイスラム教徒が、非イスラム教徒による「Allah」の使用に反発しているか、であろう。
確かに外国人の我々にとっては、イスラム教が国教であっても、カトリックの信仰の自由は保障されるべきであり、「Allah」という言葉を使用することも表現と言論の自由として保障されるべき、という主張が分かりやすい。
判決は、非イスラム教徒が、日常的なレベルでイスラムの神を「Allah」と称したり、表記することの是非を判断したものではない。たとえば、一般の新聞や雑誌で「Allah」の表記を禁ずるということではない。
また、イスラム教に関していつも保守的な発言が多い全マレーシア・イスラム党(PAS)のハディ・アワン総裁は、民族・宗教の調和を保つという社会の総意のために状況を判断しなければいけないとしながらも、「Allahの使用はイスラム教徒に限られたものではない」(1月5日付、英字紙『スター』記事)と発言し、判決についても「信仰の自由の原則はイスラム教でも保障されたものである」と理解を示している。
やはり、イスラム教徒の反発の一番大きな理由は、ペルリス州の元ムフィー(宗教識者)、ムハマド・アスリ・ザイナル・アビディン博士のコメント、「真の唯一の神を称する以外にAllahの名を使うことは出来ない」(1月5日付、英字紙『スター』記事)に代弁されている。
信仰への情熱が、熱狂にまで嵩じている感じなのだ。
また、今回の高裁の判決は、ヘラルド誌が昨年1月に「マレー語版でのAllahの不使用とキリスト教徒のみへ配布」に制限した判決を不服として訴えていたこと。ヘラルド誌はカトリック団体の機関紙であり、当然ながら布教を目的としている。今回の判決でも「イスラム教徒への布教目的では違法」としており、イスラム教徒が反発する理由のひとつはイスラム教徒もヘラルド誌を手にすることができることへの憂慮も大きいのではないか。
やはり、心配なのは教会に攻撃を仕掛けた過激派と抗議デモを行った多くのイスラム教徒を同一視してしまう危惧だ。警察当局や政治指導者の呼びかけに応じ、抗議デモは、モスクの敷地内で行われ、逮捕者もでなかった。それでも、教会焼き討ちの報復と見られるモスクの投石事件も起こっている。
憎しみの連鎖は、強い酸のようにいとも簡単にマレーシアをつなぐ連帯の糸を溶解してしまう。
一連の出来事をみていて、マレーシア社会に足りないものは、なんというか、文化の力ではないかと思う。冒頭で故ヤスミン監督のことを述べたが、マレーシア人が民族や宗教の違い超え、寛容になることの土壌は、政治の力ではなく、心と知で人々をつなぐ文化の創造によって培われるものだと思う。