今まで何回かマレーシアとF1について書いてきたが、オフロードのモータースポーツ、ラリーでもマレーシアは知る人ぞ知る国であることについて。
オンロード(サーキット)ではなんといっても元F1のアレックス・ユーンがマレーシアの顔役であるが、オフロードにもカラムジット・シンという英雄がいる。アレックスは政治的に、というか国策的にF1ドライバーになった感じで実力が伴ったとはいえない。(ミナルディで記録に残る活躍をしろといっても無理があるが、彼の時代のチームメイトはなんとアロンソとウェバーだった)
しかし、カラムジットの方は、アジア・パシフィック・ラリーで総合優勝など実績を残しており、今年は念願の世界ラリー選手権(WRC)のプロダクション・カー部門に参戦している。
それで先週のことであるが、アジア・パシフィック・ラリー選手権(APRC)の第4戦ラリー北海道でチームMRFタイヤ所属で三菱ランサー・エボリューションを駆る田口勝彦が優勝を果した。
田口ドライバーは、97年から02年までラリーの武者修行のためにマレーシアを拠点にしていた人なのだ。ちょうど本ブログでサッカーの伊藤壇選手のことを取り上げてきたが、田口も海外に目を向けてきた日本人ドライバーの先兵だった。
ラリーの世界でそもそもなんでマレーシアなのか、という話はサッカーや野球などのプロスポーツの世界と事情が異なる。
簡単に言えば日本のラリーは世界のラリーとは違うものだったからだ。サッカーであれ、野球であれ、日本と世界はルールは一緒。しかし、日本のラリーは事前の試験走行(レッキ)ができなかったり、速度制限があったりするなどラリーとは名ばかりで、世界に通用しないラリーだった。
現在では、田口ドライバーの帰国した時期と重なって、「日本に本格的ラリーを」という声が高まり、まず北海道が世界標準のラリーの開催地となった。そして昨年は念願のWRCの一戦を初開催し、成功を収めている。
しかし田口がキャリアを始めた頃は、日本がWRCの開催地になることなど夢のまた夢。
田口は日本で頂点に上り詰めることではなく、はじめから世界標準で戦えることを目指した。まず、95年に豪州でラリー修行をはじめ、マレーシアに移った。
マレーシアは当時三菱と提携していた国産メーカー・プロトンがラリーにも力を入れており、ある程度のサポート体制があった。(他の途上国では、資産家の道楽でラリーをやっているといったケースが多く、真の意味のラリー・ドライバーない)
そして、カラムジット・シンという第一人者が活躍していたことだ。
この2つの点が田口ドライバーの才能を開花させる土壌となった。
田口ドライバーがマレーシアに来たばかりは、チームもメカニックもみんなカラムジットびいき。「若造になにができる」という雰囲気だった。
しかし、勝彦と名前が示すように異常なぐらい負けず嫌いの田口ドライバーは、国内戦でカラムジットと肩を並べるようになるまで成長する。カラムジットがこの時期にグループN(市販車仕様部門)からグループA(改造車部門)、国内戦からAPRCステップアップしていったこともライバル田口の存在と無縁ではない気がする。
田口も99年にはAPRCのグループN(非改造車部門)で年間優勝を獲得までに成長する。その後、田口もグループA(改造車部門)や英国ラリーに参戦したりとラリードライバーとしてのキャリアを積み、02年にマレーシアを卒業いていった。
さて、北海道での優勝でポイントランキングでも2位に浮上し、弾みをつけた田口ドライバーの次戦はラリー・マレーシア(8月19〜21日)。ジョホール州で行われる。コースは油椰子のプランテーションになることだろう。
マレーシアでのレースは、日本に拠点を移してから初めての機会となる。今年1月に遊びに来た田口ドライバーもここで走るのを楽しみにしていた。
詳細や続報があったら、このブログでも紹介していきたい。
関連情報ラリーアートHP:http://www.ralliart.co.jp/home.html
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