再び『結束のためのマレーシア人アーティスト(MAFU=Malaysian Artistes for Unity)』についてである。
一昨日の記者会見に続き、プロジェクトのテーマ曲「Here In My Home」とビデオ・クリップの無料ダウンロードが、サイトから昨日(16日)から始まり、いよいよという感じになってきた。
(写真:テーマ曲「Here In My Home」のビデオ・クリップ収録風景)
「Here In My Home」は、名うての歌シンガー、ピート・ティオ(Pete Teo)による作詞作曲で、なかなか印象に残るメロディーだ。
テレビやラジオでのオンエアーや宣伝には、一切おカネを使わず、サイトからの無料ダウンロードのみ。今後、音源や映像がどれだけ広がっていくのか楽しみだ。
なんだかだらだらと長くなってしまったので<続き>からどうぞ。
さて、やはり一昨日の会見に出席してみて、かなりのところこのプロジェクト推進のために発起人のピート・ティオ(Pete Teo)以下の苦心と熟慮を読み取ることが出来た。
本欄ではあまり触れてはこなかったが、3月に行なわれた総選挙での与党勢力後退により、マレーシアの政治・社会における民族融和がかなりギクシャクしたものになっている。同プロジェクトは、そういった危機を機敏に感じたアーティスト達が発案から2週間でビデオを制作したという背景がある。
しかし、実際のところアーティストや芸能界のみならず社会がすぐさま賛同の名乗りを上げられないところにもマレーシアならではの難しい事情が横たわっている。やはり多くの人々は、政治的な背景がないかという点を警戒している。
建国以来、与党国民戦線がマレーシアの政権を担ってきたこともがあり、国民はどんな分野であっても与党・政府の顔色をうかがうことに慣れきっている。民族融和や国民の結束といったスローガンは、政府主導のキャンペーンというのが相場であった。
MAFUもその点は、十二分の承知していて、ピートも「あらゆる政治団体の支援や企業のスポンサーを受けない」ことを強調していた。会見の場でも当地ではお決まりの軽食やお土産なども記者に一切提供してはいなかったし、またメディアもサイトで記者会見の予告をしただけ。つまり、MAFU側は「興味があったら着てください」という姿勢で、メディアを一切招待したのではないという点が重要だ。
まぁ、そういうこともあって集まったメディアの数も多くはなかったのも確かだが、純粋な共感を推進力とした同プロジェクトの趣旨がよく現れていた。それでも参加したひとりの記者が「編集者サイドは、注意して扱わなければいけないな」とこぼしていたのが、メディアの資本に与党が関わっていたることの多い当地のメディアのジレンマを集約していた。
また会見でピートは、「公式サイトでは、アーティストの写真を意図して掲載していないし、自分をMAFUの顔にしないで欲しい」と訴えていた。これもやはり政治的な意図はないことを示す表われである。表現の自由を求めるのはアーティストの常だが、当たり前の主張さえも“反政府”のレッテルを貼られてしまうのが当地の現状なのである。
ひとつ印象的だったことは、さらなる中華系マレーシア人の参加を訴えたこと。ピートは、今のところ中華系の参加が少ないのは、�海外を拠点としている人が多い、�参加することを恐れている、�関知したくないと分析し、誤解を解いて参加して欲しいと訴えた。会見の中では、中国語メディアの記者向けにこの部分を北京語に切り替えて話すほど重要視した。
�は、前述してきた政治的な色がないかという警戒感のこと。やはりこの部分は、マレー系アーティストにも当てはまる部分であり、マレー系芸能界は政府・与党のお抱え芸人である人も多い。もちろん中華系もそうだが、同プロジェクトの成否はマレー系アーティストがどれだけ多く参加するかにかかっている気がする。言葉は悪いが逡巡しているアーティスト達の中には、“マレーシアン・アーティスト”という看板を値踏みしているところなのだろう。
その証左にMAFUは、マレー語音楽と映画では大きな存在のアウィ(Awie)の参加を歓迎していた観があった。新マレー映画の旗手であり、ミュージシャンであるアフドゥリン・シャウキ(Afdlin Shauki)が、「Here In My Home」のマレー語版を制作することであり、どれだけマレー系アーティストが参加するか注目していきたい。
印象に残ったのは、ヤスミン・アーマッド(Yasmin Ahmad)監督が動機は「純粋に国を愛する心」と語った言葉。その言葉には他意はなく、あとはアーティスト達が傍観から行動に移す勇気の問題だと思う。
まだ発足して間もないので、MAFUと同プロジェクトに対する理解が進むものと思うし、“マレーシアン”として結束した芸能・文化がどんな力を発揮していくかが楽しみである。
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多民族国家マレーシアは、よそから見ているだけならカラフルで多彩で楽しいんですが、当事者にとっては世知辛いものですね。
ところで、3月の総選挙で与党が後退したことにより民族融和がギクシャクしているというのはどういう意味でしょう?民族融和より各民族個々の利益を主張する野党が躍進しているという意味でしょうか?
あとヤスミン監督の「純粋にマレーシアを愛するからMAFUに参加した」という言葉に感動しました。小難しいことをいちいち計算しないで、純粋にマレーシアのために何かしたいと表現することがなんて難しいんでしょうか。
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わにた・じゅぷんさん、ごもっともな質問です。
まず、なぜ民族間の関係がギクシャクしているか?
うーんと簡単に言うと、与党の強権が弱くなり、いままでマレー系優先(ブミプトラ)政策の是非についておおっぴらに発言できるようになった、ということです。結局、非マレー系は「平等に扱われていない」というわだかまりを抱きながら、与党の強権の元では、その思いを封じ込めていたのですね。
“民族融和”は、誰にとっても大事なことは自明なのですが、急進的な野党の政治的立場はマレー系優先政策撤廃です。もちろん、与党にも野党にも「一部の人間しか受益者になっていないブミプトラ政策の是正しよう」という考え方もありますが…。(あんまり簡単な説明ではないですね)
とにかくマレーシアの政治は、現在、国のあり方、各民族の立場に神経質なっているということです。
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それで、わにた・じゅぷんさんの質問その2。
なんでマレーシアのために立ち上がることに小難しい計算が必要か?
小難しいことを言っているのは、MAFUよりもボクなのでしょうけれど。(半分冗談です…)
でも、これだけ多様な人々が暮らしている社会だと、一見誰の目にも正しい主張でも「誰の利益を代弁しているか」という点をかんぐることが多いのですね。
今、民族融和を訴えるのは、非常に機に聡いといえるのですが、人々はそこに政治的な臭いを感じたら共感も吹っ飛んでしまう。まぁ、会見でMAFUがその点を苦心していることが痛いほどわかりました。
あと、与党の強権化では、非常にものがいいづらく、反政府のレッテルを貼られると投獄まではいかないですが、活動に支障がでてくる。公で当たり前のことを言うのにも細心の注意が必要なのですね。
だから“純粋に国を愛する心”から生まれた作品がどれだけ理屈ぬきに人々の心を動かせるのか、アートとアーティストの持つ力がマレーシアの危機に際して、どこまでやれるかに注目なのです。
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アサ・ネギシ様、とても詳細で丁寧な解説(返事)をありがとうございました。
マレーシアの歴史を学べば、「マレー」シアは多数派民族マレー人のための、マレー人による国であるべきだという意見ももっともらしく聞こえますが、その一方で実力を発揮できずにくすぶっていてもったいないというマイノリティも無視できないですね。
それでもマレーシアを愛そうとするマイノリティには感心します。
それにしてもマレー人はもっと外からの批判に逞しくおびえず、堂々としていてほしいですね。
ヤスミン・アフマッド監督の「セペッ(SEPET)」でも、ヒロインのオーキッドが華人ボーイフレンドの友人に対して「違うわ、やっぱりマレー人は怠け者よ(No, you’re wrong. Every Malay is lazy.)」という部分がカットされるとか・・・・。
MAFUの今後の活動に期待して待っております。同時にアサさんのレポートも。