サッカー五輪アジア地区最終予選日本対マレーシア戦は、2-0という結果だった。
日本のサッカー界には、特筆することも少ない試合だったかもしれないが、マレーシアから観てみ見れば、少しずつ何かが変わった試合であった。
マレーシア代表は、09年東南SEAゲーム(アジア競技会)でU-23代表、10年スズキ・カップ(AFF東南アジア選手権)でフル代表の2つの大会で優勝し、代表チームは、フットボール中興の兆しで迎えられている。街に代表チームのジャージ姿があふれている現象は、近年なかったことである。
そんな盛り上がりの中で迎えた7月28日のワールドカップアジア最終(3次)予選進出をかけたシンガポール戦では、2試合合計4-6で屈辱をなめた。そんななかで向かえたロンドン五輪への挑戦となる日本戦だった。
マレーシアここ10年余り、五輪代表強化にシフトしてきた。現在は五輪世代は、国内リーグ、マレーシア・スーパー・リーグの1チーム、「ハリマオ・ムダ(若き虎たち)」として参加している。この流れは、2000年に「オリンピック2000」という五輪代表強化のためのチームにルーツとしており、五輪に照準を合わせた世代の代表は常にひとつのチームとして国内・国外で試合をしている。(厳密には、ハリマオ・ムダもAとBにわけ、国内戦と国外の試合をこなしている)ハリマオ・ムダは、来期シンガポール・リーグに参戦予定で、さらなる研鑽の機会を得る。
ちなみに「オリンピック2000」という名称には、72年ミューヘンと西側ボイコットで幻となった80年モスクワ五輪に出場(出場資格をえた)した栄光があるマレーシアの五輪への悲願が込めるられていた。今回の五輪最終予選もマレーシアにしてみれば、32年ぶりの五輪出場をかけたチームである。ちょうど釜本を擁したメキシコ五輪から前島らの主力選手がマイアミの奇跡を演じたアトランタ五輪まで停滞していた日本サッカー界と重なるものがある。
マレーシア・サッカー界にとって、そうした文脈て迎えた日本戦、終わってみれば、昨年の広州アジア大会予選で対戦時と同じ0-2での敗戦。しかし、シュート本数は、2-26といかんともしがたい差があった。
それでも守護神GKカイルル・ファーミ・チマット(Khairul Fahmi Che Mat)が、雨あられのシュートを止めまくった姿は、日本人ファンの目にも刻まれた。また、ワン・ザック・ハイカル・ワン・ノル(Wan Zack Haikal Wan Nor)と思しき選手が、プロのライター金子達二氏の目にも留まっている。(こちら)ただ、金子氏は、ザカリアと表記しているが、ワン・ザックのことではないかと思われる。せっかくの国際試合で注目される機会なのにイスラム教徒名前に無理に苗字(姓)を当てはめる方式で、しかたなく登録名が父親の名前になってしまっているのは、痛いことだ。
繰り返すが、それでもマレーシアにとって今回の試合は、Tosuという日本人でも耳慣れない場所に大手テレビや新聞社が記者を送り、在日マレーシア人がスタジアムの一画を占めたことも進歩だった。以前ならば、通信社から買った記事や写真・映像がメディアに載るだけの話だった。もうマレーシアにとって、日本はそれほど遠くない外国になりつつあることも感じた。
土壌が整えば、金子達二氏が指摘するように日本は、マレーシアとのサッカー界の交流と底上げに貢献できるのではないだろうか。
さて、マレーシアにとってのホームでの日本戦は、来年2月22日。次は、どんなお膳立てでドラマが演じられるか楽しみである。