小林家のファミリーヒストリー 〜信州から会津に行ったご先祖様〜
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NHKに「ファミリーヒストリー」という人気番組がある。
毎回、ひとりのゲストが試写室に招かれ、ご先祖様についてのさまざまな歴史が明らかにされるという内容だ。
ご先祖様の生き様は三者三様だが、栄華を極める人もいれば、没落する人もいて、大抵は、本人どころか親族も知らないような驚きの事実が飛び出てくる。
ノンフィクションなのに、必ず感動的なエピソードが出てくるのは、取材班が有能、構成作家の腕がすごい、ゲスト選びが的確、など、いろいろと秘訣があるのだろう。
いずれの回もゲストはもちろん、見ているこちらもジーンとしながらエンディングを迎える、いわばご先祖様クエスト的な番組である。
「うちの家系も調べたら“ドラマチックなヒストリー”があるのでは?」
そう思いながらこの番組を見た人は私だけではないだろう。
ところがチャンスは突然訪れた。
「渡、そういえば、本家には江戸時代に会津に行った人がいるらしいぞ」
2011年夏、小林家の“ファミリーヒストリー”は、父が口にしたひと言から唐突にスタートした。
父から話を聞く直前、私は、俳優、浅野忠信が母とともに出ていたファミリーヒストリーを見ていた。この回は、ファミリーヒストリーの中でも特に反響の大きかった放送の一つだ。
浅野の祖父は戦後に日本を訪れたアメリカ兵で、GHQの引き揚げの際に、祖母と別れてアメリカへ帰国。取材班はその後の軌跡を丹念に追い、最後はアメリカ側の肉親と対面を果たすというものだった。
たった2代上でも、本人たちがまったく知らない情報がこんなにも出てくるんだ……とびっくりしたのを覚えている。
江戸時代のご先祖様ならなおさらだろう。
父の話が本当ならば。
私の実家は、長野県の南部、箕輪町というところにある。
中央アルプスと南アルプスに挟まれ、諏訪湖から遠州灘に注ぐ天竜川の上流にある田舎町だ。
本家は信濃屋本店という自動車販売店を営んでおり、本店の名がついているとおり、いっときは支店を5つも6つも構えるほど繁盛したという。
父曰く、
「小林家の本家のお墓は、菩提寺の本堂の真裏にあるから、古くから続いている家のはず。会津に行ったという先祖は、確か、仏壇の操出位牌(くりだしいはい)に記録が残っていると思う」
とのこと。
父の父、つまり私の祖父からそういう話を聞いたという。
そこで、帰省した翌日、本家に行って仏壇の操出位牌を見ることになった。
位牌は故人一人について、一つずつ戒名を記したものだが、何代も続く家系だと仏壇に位牌が収まりきらない。そのため、位牌は菩提寺に預け、仏壇には戒名を板に書いてまとめて収めておく。これが操出位牌だ。
本家の仏壇には二つの操出位牌があった。
中から戒名の書かれた板を出し、1枚ずつ調べてみる。
○○信士や○○善女といった戒名に混じって、○○童子、○○童女という戒名も多い。
ほとんどは没年とともに俗名や年齢が書かれており、昔は生まれてすぐに亡くなる子どもが本当に多かったんだなと実感する。
その中に、墨ですき間なく文字の書かれた板があった。
それが、今回の主人公、私から数えて五代上の小林清五郎だった。
そこには、
「小林佐兵衛兄 奥州會津川島区ニ而(しこうして)居倉半三郎ヺ申則(すなわち)幼名小林清五郎ト申(もうす)博学多才人也」
と書かれていた。
小林清五郎は、信州から南會津の川島区に渡り、居倉半三郎と名を変えて暮らした。
博学多才な人だった・・・。そう書いてある。
なぜ南會津?
どうして名前を変えてるの??
その場にいた父や私はもちろん、本家のおばさんやいとこも、板きれ1枚を前に首をかしげるしかなかった。
しかし、その板に祖父、清人(きよと)が後から付記した文字を読んで、状況が飲み込めた。
「昭和弐年、小林清人付記ス」と書かれた部分には、居倉半三郎から後の子孫の名前が書かれていたのだ。
昭和弐年に書き足したということは、祖父はその情報を居倉家側から直接聞いたということだろう。
そのとき、父が「そういえば、うちの親父が若い頃、福島へ行ったというような話を聞いたことがあるな…」と思い出すように話し始めた。
ひとまず、小林家の先祖について全体像を把握するため、その場ですべての操出位牌を写真に収めた私は、東京に戻ってから、一覧をつくり、それをもとに家系図をつくることにした。
操出位牌に書かれた和暦を西暦に直し、俗名や続き柄が書かれたものはそれを手がかりに世代を整理。すると、最も古いご先祖様は、宝暦九年、1759年に亡くなった女性だとわかった。
江戸時代の後期、九代将軍、徳川家重のあたりだ。
「すげー、うちのご先祖様、250年前までたどれた!」と一人興奮して、家族や親戚に一覧を送ったが、反応は薄かった。
それでもめげずに家系図を作成。
幸い、本家のいとこが町役場で除籍簿、いわゆる江戸末期から昭和の戦前までの戸籍簿を取得して送ってくれたため、私から数えて六代上の小林卯平(寛政九年・1797年没)までのつながりが判明し、家系図が完成した。
すると、1つおもしろいことに気づいた。
南会津に渡って居倉半三郎と名乗った小林清五郎は、兄にも関わらず、小林家を継がずに、弟の佐兵衛が小林家の家督を継いでいた。
どら息子で勘当され、弟が家督を継ぐという話はどの家にもあるけれど、そんな息子が「博学多才な人也」と書かれてわざわざ操出位牌に収まる訳がない。
しかも、佐兵衛は自分の子どもに、兄と同じ、清五郎の名をつけていた(または子どもが名を継いだ)。どう考えても、円満な状態で家を出ている。
さらに、昭和2年、祖父、清人が南会津まで行って、居倉家の子孫に会ってきたと思わしき記録も残っていた。操出位牌には祖父が付記した板とともに、先方の戒名を書き写してきたと思われる和紙も入っていたのだ。それを読み解くと、居倉家の子孫の名前も書かれていた。
少なくとも昭和2年前後までは健在ということは、よほどのことがなければ居倉家が続いている可能性は高い。
でも、どうやって調べたらいいのか……。
ネットの電話帳で調べてみると、南会津に「居倉」の姓を名乗る家が何軒かあった。
しかし、電話したとして、何と説明すればいいのだろう。
「長野の小林ですが、江戸時代の私たちの先祖が、そちらのご先祖様になった可能性が……」
怪しい。怪しさ満点だ。
そこで、直接現地を訪れ、詳しそうな人に直撃アタックすることも考えたが、東京からは3時間近くかかる上に、電話以上に怪しい人だ。
そこには、当然立ちはだかる、個人情報保護法!
万策尽きたか……と思ったとき、偶然入った立ち飲み屋の横で飲んでいた人が、会津出身だった。
「そりゃ、役場に聞いてみなよ」
そのひと言をヒントに、翌日、さっそく南会津町のホームページを開き、問い合わせフォームに詳細を書き込んで送ってみた。できるだけ怪しくないように。
すると翌日、南会津町役場の総合政策課の方からメールが返ってきた。
個人情報にまつわることではあるものの、居倉家は川島区に何軒か存在し、直接尋ねてくださるという。
2018年の4月、操出位牌を見てから7年が経っていた。
ご先祖様クエストを担当してくださった長沼係長からは、少しずつ手がかりを集めながら、折りを見て状況報告の連絡が送られてくるようになった。
「子孫ではないかと思われる方を、見つけることができました。」というメールが届いたのはそれから1か月ほどたってから。
あまりにうれしくて、父にメールをした後、すぐに立ち飲みに行ったような覚えがある。
会津出身のおじさんにお礼をいうために。
残念ながら会うことはできなかったが、その後、長沼係長が間に入ってくださり、小林家と居倉家とで日程を調整。
10月13日(土)、ついに南会津で居倉家の子孫と対面を果たす。
小林家からは、本家の跡取りである将生(のぶお)さんと、父、哲夫、そして私の三人。
居倉家では、跡取りの徳夫さんや次男の慎司さんのほか、10名が待っていてくれた。
先祖の謎について、こちらだけが盛り上がっていたら、きっと迷惑だろうなぁ……と、南会津に入る手前で、ふと冷静になったものの、杞憂だった。
なんと、居倉家のほうでも、居倉姓のルーツを調べている人がいたからだ。
私がつくった家系図をもとに、小林家と居倉家の関係をお互いに確認しあう。
聞けば、居倉家は昭和の初めに2回火事を出し、古い記録がほとんど残っていないという。
一方、小林家も祖父の死後、家屋や工場を建て替えており、その間に行き来がなくなったらしい。
ただ、居倉家の中には「昭和の初めに、長野から自転車屋をやっている人が尋ねてきた」という言い伝えが残っており、どうやらそれが祖父、清人の残してきた痕跡だった。
ひとしきり話した後、両家で居倉家の墓参りへ。
おそらくご先祖様も飲んだであろう、本家のそばの泉で湧いている清水を墓石にかけ、生花と線香を手向ける。
墓前で記念写真を撮ると、皆、もと来た道を歩いて居倉家に戻って行ったが、将生さんは残った清水を墓石にかけ、私は写真を撮っていた。
そのとき、おそらく奇跡みたいなものが起こった。
もしくは、ご先祖様の粋な計らいかもしれない。
ファインダー越しに、見覚えのある文字が見えたから。
家系図をつくり、長沼さんとやりとりする中で、さんざん見た先祖の戒名が、目の前の墓石に刻まれていたのだ。
慌ててみんなを呼び寄せ、風化で見づらくなったご先祖様の墓石の周りに集まった。
居倉姓のルーツを調べていた好一さんとともに、墓石の戒名を1文字ずつ確認していく。
積寳歓喜清信士
私は戒名にはまったく明るくないが、
寳(たから)を積み、歓喜で清い一生を送ったという意味なら
ご先祖様は、財をなし、幸せな人生だったのだろう。
ちなみに、この話にはさらなるミラクルがあった。
長野に戻った父が、本家の墓を確認したところ
同じ戒名が小林家の墓石にも刻まれていたのだ。
つまり、小林清五郎改め居倉半三郎は、南会津だけでなく、箕輪でも弔われていた。
この墓石は、明治の初期に建立されたもので、
当時はまだ、汽車も自動車も走っていない。
その時代に、両家が交流していたことを示している。
ご先祖様は、なぜ南会津にわたったのか。
そして両家がどんな交流をしてきたのか。
まだ謎は多いが、少しずつ明らかにできればと思っている。
小林家と居倉家の対面については、福島民友新聞社さん、みのわ新聞社さん、信濃毎日新聞社さんにも取り上げていただきました。
200年経た「再会」喜ぶ 箕輪から福島へ渡った先祖子孫と(12/8 信濃毎日新聞)
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