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上野動物園ゾウ秘話(3)

公開日: : 最終更新日:2012/05/28 辺境動物記

 日本には東京と神戸に最初にモスクが作られた。
 その二ヵ所にムスリムが多かったからだが、主体となった民族はまったく異なる。
 昭和12年にモスクを作った神戸のムスリムはインド系商人の人たちだ。当時はイギリス領だったので、今のパキスタンやバングラディシュの人々も混じっている。というか、ムスリムだから、そちらの出身者が多かったのだろう。
 いっぽう、それに対抗するように、翌昭和13年、東京にモスクを建てたのは、タタール系ロシア人だった。
 彼らは主にウラル山脈の西、ヴォルガのほとりに住んでいたトルコ系の人々で(今でもその辺にタタールスタンという小さな共和国がある)、日本では「韃靼(だったん)人」の名前でも知られる。
 モンゴル帝国の時代にロシアを支配した民族で、イスラム教徒である。
 彼らは今でもロシア共和国でロシア人についで2番目に人口が多い。
 彼らは帝政ロシア時代にはロシア正教会に「異教徒」として迫害を受けていた。
 ロシア人にとって、モンゴル支配下の日々は「タタール人のくびき」という名で、今でも恐怖の記憶として残っているそうだから、そういう恨みつらみもあったらしい。
 で、1917年に革命が起きると、今度は共産主義者からさらにひどい弾圧を受け、ぞくぞくと東に逃亡、大量の難民が日本に逃げ込んだ。
 日本では当時、中国の孫文、インドのチャンドラ・ボースにはじまり、アジアの亡命者を積極的に受け入れてきた。
 大隈重信、犬養毅、頭山満ら、アジア主義者がその先導役を担っていたのだ。
 ことに日露戦争後も「仮想敵国」であり続けたロシアからの難民には寛容だったようだ。
 だから、顔にすすを塗って上野動物園に現れた偽インド人は、ほぼ間違いなくタタール系ロシア人だと思われる。
 「犯罪者」というのも、「反革命分子」の意味だろう。
 しかも、きわめて短期間にゾウに芸を仕込んだのだから、ほんとうのゾウ使いだった可能性が高い。
 私の推測では、彼はロシアのサーカスに所属していたのではないか。
 現在のタタールスタンからモスクワまで、直線距離にしてたったの600キロほど。
極端な話、ボリショイ・サーカスの元団員であっても不思議ではない。
 日本に亡命したタタール系ロシア人は山ほどいて、日本から保護を受けているのに、この偽インド人だけ、日本の警察もロシア大使館からの要請を断れず、拘引に協力したということはかなりの大物だとも考えられる。
 サーカスの団員をしながら反政府工作活動を行っていた可能性もあるし、やっぱり影響力の大きい、元ボリショイのゾウ使いじゃないかなあ、それだと話がおもしろいんだけど…などと思うのだった。

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Comment

  1. 太郎 より:

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    そうですか、韃靼人と言うのはタタール系ロシア人(トルコ系>)だったんですね。 面白いですね。
    この高野さんのブログは本当に面白くい。
    ここに書いてる事を集めるだけでも一冊の本に出来そうだ。
    高野さん、ぜひ、そのタタールスタンに行って、おまけに現在の東京に居る又は居たタタール系ロシア人の事を調べて書いて下さい。
    結構、日本人の女性と結婚して永住している人が数多く居そうな気もします
    これは高野さんの分野でしょう。
    日本の中のマイノリティ—と言うのは面白そうですよね。
    早稲田三畳も良いけれど日本の中のマイノリティでいつか本を書いてください。 
    それにしても高野さんの文章は面白い、読ませる。

  2. NONO より:

    AGENT: Mozilla/4.0 (compatible; MSIE 6.0; Windows NT 5.1)
    ゾウ、かわいいですよね。
    動物の話はホント面白い。
    それから派生したタタール人の話も興味深いです。
    ところで、昨日ガイドしたお客さんは、
    横浜の動物園の飼育係や、獣医の方でした。
    動物の話で盛り上がった。
    カワウソの飼育係の人だったんで、
    「あ、オレ、アフリカでカワウソ喰いましたよ〜!」
    と言ったら、苦笑いしてました。
    それで、一緒について来たお友達の女性が、
    とてもキレイで、しかも
    「サルを食べたの〜?私も食べたーい!」
    と言ってました。
    お、これは、話が合うかも!?
    と、高野君の「ムベンベを追え」を贈呈し、
    「これにオレも出てるんだぜ〜」
    とアピールいたしました。
    努力はしてるんだ、オレも。
    でも、どうせ、ダメなんだ、また、オレなんて・・・
    ちくしょう!アフリカ行ったらゾウの踊り食いするぞ!

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