ミャンマー紀行〜チン州への道〜(4)
公開日:
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最終更新日:2012/05/25
無茶旅行
日本の登山道では大抵の場合、行き交う人々は同じ様な登山者であることが多い。しかしヴィクトリア山への道は地元の人々の生活道路を使うため、畑作業から帰る大人子供、木材の切り出しに出かける大人、はたまた鉄砲を持った猟師等、いろんな人々にあう。驚くことに彼らの足下を見ると例外なく全員ビーチサンダルであった。
標高1600mあるミンダの街から谷一つ隔てたヴィクトリア山へ登るためには、一度谷底まで下りて隣の尾根へ移らねばならない。標高差800mの急激な下り坂を降りきった後、同じように急激な上り坂が1000m近く続く。読者の皆さんの中には「スタートしていきなり下りなんてすごくラクじゃないの?」と思われるかも知れない。ところが車道のようになだらかな下り坂ならばいざ知らず、山道特有の転げ落ちるような下り坂となれば話が変わってくる。何より体の重さがダイレクトに膝にかかってくるのだ。急な斜面を「滑りやすくて段差の大きな階段で下る」様を想像して欲しい。20分も経てば「膝が笑う」という下り坂独特の状態になり、膝の踏ん張りが少しずつ効かなくなってくるのに気がつく。簡単な段差で足を引っかけたり、小石を踏み外したり、石につまずいてこけやすくなるのだ。
普段どこへ行くにもビーチサンダルを履いているガイドやポーター達が、さすがにスニーカーや靴を履いている。ただし我々と違って靴下などは履かず素足にそのまま靴を履いている。しかも足にはマメ一つ出来はしない、なんとも強靱な連中だ。今回の一行でずっと私の荷物を持ってくれたのは昨日ゲストハウスにシュエターと一緒に来ていたロー・シュエ。ビルマ語で「金」を意味するシュエの足下もサンダルから黒革のブーツに替わってはいたが、指の付け根あたりに穴が空き横から足の指が見え隠れしている。もっとも彼にしてみると、靴の中が蒸れるのを避けることが出来る上、所々道を横切るように流れる小川の水が靴の中に入って気持ちよさそうであった。下り始めて1時間もしないうちに谷底へ着く。途中には小さな集落や、尾根の人々が育てていると思われるトウモロコシ畑が点在し、人々の生活の痕跡をそこここで感じ取ることが出来た。木陰で一息つくと、コーヒー色の濁流が水しぶきをあげる急流の上を意外と頑丈にできた吊り橋で渡り終え、いよいよ「登山」がスタートした。
日本の山岳登山は明治時代、日本アルプスの名付け親となったイギリスの冶金技師ウィリアム・ガウランドや、日本アルプスを紹介した『MOUNTAINEERING AND EXPLORATION IN THE JAPANESE ALPS』の著者であるイギリスの宣教師ウォルター・ウェストンの来日などにより、それまでの山伏や修行僧が行っていた苦行としての登山からスポーツへと変貌していった。そのイギリス式を取り入れたのかどうか定かではないが、日本の山々の登山道は概して「く」の字を描くよう徐々に登るコース取りがなされている。そうすることで登る斜度をやわらげ、体への負担を少なくしスタミナを多く残しながら山頂を目指すことが可能となる。ところがチン州の人々は違った。並はずれた脚力を持つ彼らは、くの字になることで歩く距離が伸びることを嫌い、ほぼ直線で上を目指すのだ。登山を愛好する人なら「胸突き八丁」という言葉をご存じかも知れない。膝が胸についてしまうほどの急坂が八丁(約872m)も続くことから名付けられた登山道の名称だが、まさにエイ村までず〜っと胸突き八丁であった。
坂道に入ると晴天が恨めしく思えてくる。急坂はエネルギーを使うため、体が急激に熱くなる。そこへ太陽が降り注げばいくら汗をかいてもかいてもたまらない。歩き始めに封を切った「Alpine」のボトルがガンガン減っていく。シュエター以下ポーター達は途中の水飲み場で喉を潤した程度で涼しい顔をしている。しかもそれぞれ私の荷物やテントなどを背負っているのにだ。一眼レフとビデオカメラを入れたカメラバックと、パスポート類を入れたウエストバックのみの出で立ちでグビグビ水を飲んでいる自分が情けなくなった。日本にいる時は、長野県の実家を早朝車で出発し、南アルプスの仙丈ヶ岳や中央アルプスの木曽駒ヶ岳などに日帰りで登ってくるなど、そこそこ足には自信があっただけに、ポルシェと耕運機なみに違う脚力にただただ脱帽するしかなかった。
昼を食べ、振り返れば自分たちがミンダの街より上に来ていることがわかる位になると、急に天気が悪くなってきた。標高はすでに2000m近い、午後になると変わりやすい山の天気そのものだ。突如目の前に出現した林道にルートを替え、2時間半ほど歩いた急な山道に別れを告げる。林道は乾季であればジープが通れるが、雨季は所々道が崩れ使えない。あたりは霧に包まれついに小雨が降り始めてきた。しばらくすると民家がいくつか見えてくる。全部で15軒ほどのエイ村、地元の言葉でイーサカンだ。2000年の外国人初登頂の際にゲストハウスとして使われた小屋はすでに朽ち始め、入口で山羊のつがいが雨宿りをしている。村の子供達にレンズを向けるとみんな叫び声を上げながら蜘蛛の子を散らすように逃げてしまう。正しい田舎の姿がここには残っていた。先頭を歩くシュエターが林道からそれ、一軒の民家へ入っていく。今日お世話になるゲストハウス兼シュエターの親戚宅だ。早速荷をほどき、汗と雨でびしょぬれになった服を着替え、熱いお茶を飲みながら一人ぼけーっとしていると、再びルーインさんがニヤニヤしながらマンダレーラムをおいていった。今日の夕方見るはずだった「チン州の部族の踊り」とやらは天候が悪いので、明日の朝に延期するとのことで、私は腰をすえて飲むことを決断した。しかし、2時間後急に天気が回復し、へべれけなまま踊りを見ることになるとはよもや思いもしなかった。。。
ゴロゴロしながらマンダレーラムを飲んでいると、私のザックを背負ってくれたロー・シュエがやってきた。人なつっこい彼は少し英語が出来るので二人で滅茶苦茶英会話をしながらお互いのことを話しあった。そのうち私がチンの言葉に興味を持っていることを知ると、滅茶苦茶英会話から一転、ネイティブだから発音も安心!のにわか「チン語講座」が開校した。まず最初に習ったのは挨拶。「How are you?はNagar nia?(ナガーニア?)、I’m fineがGagagi(ガガギ)」男二人が、ナガーニア、ガガキ、ナガーニア、ガガキ、と言い合いながらマンダレーラムで乾杯する。そこへゲストハウスのオヤジが白いペットボトルを抱えて登場した。酔っぱらいの外人に飲ませてみたかったのか、自分が飲みたかったのか、まぁこれを飲んでみろと二人にすすめる。シュエに聞くと「ジュ」というアルコールで、地元のライスワインだという。コップに注ぐと見るからにどぶろくである。が、一口飲んで驚いた。吟醸酒のようなフルーティーな香りと甘みに炭酸が入っているのだ。そう、吟醸酒のシャンパンと思ってもらえばいいだろう。とにかく一口で気に入った私はシュエにチン語を教わりながら、二人して「ジュ」をがぶ飲みした。
「親の小言と冷や酒は後から効いてくる」
某居酒屋のトイレに書いてある格言を辺境の地で思い出したのはチン語講座が挨拶から本格的な文章になりつつあるころだった。「ジュ ナジュムネヤ?」(ジュが好きですか?)「ガ、ギー アジュ カネージュムギ!」(はい、わたし、酒、愛してます!)あまりの飲み口の良さにうっかりしていたが、醸造酒は最高でアルコール度22%程度までアルコール分をあげることができる。ルーインさんによれば、瓶に出来たものを水で割っているそうだが、後半明らかに「濃く」なっていた。マスターならぬ、オヤジのサービスかもしれない。ご機嫌なチンと日本の男二人がバカ話でゲラゲラ笑っていると、ルーインさんが申し訳なさそうに「今から村の踊りを見せてくれるそうです」と教えてくれた。
ふと外を見ると、さっきまでの霧雨が嘘のように青空が広がり、遠くミンダの街が眼下に見える。夕日が落ちる前の何とも綺麗な景色だ。村の踊りは村の中でも一番の広場がある小学校のグラウンドで行われた。小学校は我々のいる民家から下ること300mほどのところだったが、今日の山道で膝が笑っている上に、ジュがボディーブローとなって、後で写真を見ると踊ってくれた村人に申し訳ないほど酔っぱらっていた。二人で写っている記念写真など、まるで戦後の昭和天皇とマッカーサー元帥のようだ。きりっと背筋の伸びた辺境の男の横に極東からきた酔っぱらいが赤い顔でだらしなく肩を組んでいる。その時は精一杯まともな顔にまともな姿をしたつもりだったがレンズは正直だった。しかし貴重な踊りを見逃すまいと、酩酊に近い状態ながら奇跡的にビデオと写真はきちんと撮影していた。死者を追悼する踊りや、死に神を村から追い出す踊り、獲物や収穫にまつわる踊り等々、いにしえから続く彼らの辺境での生活に根ざした踊りであった。
40分ほど踊りを見た後、みんなで記念撮影をして再び宴席へ戻った。夜が更けると宴席はオヤジの居間兼台所へと移され、部屋には私の先生シュエの他に、シュエターやポーター、オヤジの家族、近所のおっさん等々入り乱れ、いろりを囲んでの大宴会となった。今メモ帳を見返してみると、実に多くのことを学び取り、チン語学習に余念がなかったようであるが、途中のページから書いた覚えがない。さらにどこからかギターも飛び出て、どっかの兄ちゃんとシュエターが歌っている姿もカメラに収められていたが私には撮した記憶がない。そう、この夜私は辺境の寒村でひとり記憶を飛ばしていたのだった。(つづく)
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Comment
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すげー面白いです><。
体力の無い私には「不可能」な体験ですが・・わたるさんの体験記を安全で空調の効いた部屋で読ませてもらってます。すみませんー