ラジカル佐藤英一先輩逝く
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高野秀行の【非】日常模様
昨日は大阪に行ってきた。
早大探検部で私より2つ上の先輩が心筋梗塞で急逝し、その告別式があったのだ。
先輩については『ワセダ三畳青春記』で「ラジカル加藤さん」という名前で書いている。
本名は佐藤英一さんだ。
その本で書いたとおり、佐藤先輩は「探検部・中興の祖」とでも呼ぶべきカリスマ的人物だった。
その前後の代でも活動歴で突出したひとは何人かいたが、佐藤先輩ほど後輩たちに影響を与えた人はいなかったろう。
少なくとも、私が人生で最も影響を受けた人だと思う。
先輩はおそろしく思想がラジカルな人だった。
「本物の探検とは何か」を突き詰めるあまり、「今の地球上にはもはや探検する場所がない。俺たちは宇宙か深海に行くしかない。
だから登山や洞窟なんかは一切やめ、今後は宇宙ロケットか深海探査機の開発に専念すべきだ」と真剣に私たちを説得にかかったときもあった。
一時は「精神の探検」を志し、毒キノコを食いまくったり、当時日本では誰も効果をよく知らない植物を採集し、人体実験を繰り返した。
私はチョウセンアサガオの種を大量に食べ、15時間意識不明に陥ったことがあるが、それも佐藤先輩がどこかの植物園から「入手」したものだった。
探検部以外でも常に「本物」や「究極」を目指す姿勢は変わらなかった。
一時期、探検部上級生(5年~8年生)の間で水泳が大ブームになったことがある。佐藤先輩の発案で私たちは「河童団」というチームを組み、
杉並区の大会に出場した。
そのとき、佐藤先輩の体型はものすごかった。もともと國學院久我山高校ラグビー部出身なうえ、この大会に向けて一年間鍛えに鍛え抜いていた。
「体型だけなら全日本代表クラス」と元水泳部の後輩が驚いていたほどだ。
そして、飛び込みもすさまじく、会場をどよめかせたが、泳ぎ出すとあまりの遅さに会場はまたどよめいた。
「一年間、筋トレと飛び込みに費やし、水泳まで手が回らなかった。あと一年あればな」と先輩は悔しそうにつぶやいた。
恋をしていたときも一途だった。先輩は内面は超・純粋であり、しかも外見はおそろしくハンサムでかっこいい人だった。
つまり、ふつうにアプローチすれば、誰とでもすぐ付き合えると思うのだが、先輩にはその具体的方法がまったくわからなかった。
あるいは、わかってもできなかった。
「あの人に電話をかけられたら、指一本詰めてもいい」と切々と私たちに語っていたこともある。
常に「究極」を目指す姿勢は社会人になっても変わらなかった。
先輩が会社に入ったこと自体が驚きだったが、もしかすると「本物の探検家・冒険家になるためには会社員くらいつとまらなければいけない」と思っていたのかもしれない。
だが、当然と言うべきか、そんな人がサラリーマン生活に合うはずがない。
ときどき、朝9時頃、ワセダに住んでいた私のところにやってきた。
「今日は会社に行く気力がわかない。どうしてもここまでが限度だ」
大手町へ行く東西線を途中下車してしまうらしい。
話を聞けば、毎日上司と対立を繰り返し、辛くてしかたないのだという。
そういう日は、私の三畳間で寝そべって本を読んでいた。
あるとき、見たら、「電気の歴史」という本で、「電気は、古代エジプトで静電気が発見されたのが最初だ」とか書いてある。
「いや、上司が俺にパソコンを習えって言うんだ。パソコンは電気だろ? だから電気を学ばなきゃいかんと思ってな」
古代エジプトからパソコンにたどりつくまで、一体何十年かかるのだろう。
思わず先輩の上司に同情してしまったほどだ。
先輩には海外でも驚かされた。
私はタイのチェンマイ大学で一年、日本語を教えたあと、ぶらっとサムイ島へ遊びに行った。
浜辺のバンガロウに泊まり、軒下に吊したハンモックに揺られていると、ビーチの方からまっすぐにこちらへ向かってやってくる男がいる。
その異様に力強い歩みとがっしりした身体は地元タイ人のものでもリゾート気分の旅行者のものでもない。
「ん? なんだ?」と思ってみていたら、佐藤先輩だったので仰天した。
「高野、やっと見つけたぞ」 鋭い目で私を見つめると、先輩はにやりと笑った。
どういうことなのか、さっぱりわからない。私は本当にふらっとこの島に来ただけなのだ。先輩とは二年くらい連絡さえとってなかった。
どうやら、私が仲のよい後輩に「3月になったらサムイにでも行くかな」と電話で軽くもらしていたらしい。
それと伝え聞いた先輩は、有休をとり、サムイに来て、私を捜した。休暇が四日しかないのに、しらみつぶしにビーチをあたっていたのだ。
で、私を見つけて何か用があるのかというと、何もない。ただ、酒を飲むくらいだ。しかも、せかす。
「高野、急げ! 俺の休暇は短いんだ」
本末転倒というか、そもそも何がしたかったのか今でも謎だ。何かを突然探したくなるという癖があったのだと思う。
この探索癖はつい最近まで続いていたらしい。
数年前、まだ屋久島の野々山さん(駒大探検部OBで佐藤先輩の一つか二つ上)が山の中に暮らしていたとき、急にドアがノックされて驚いたという。
なにしろ、訪ねてくる人などいない。森の奥深くなのだ。
空けると、汗だくの佐藤先輩が立っていて、「野々山さん、水ください」と言った。
このとき野々山さんと佐藤先輩が会うのは二十年ぶりくらいだった。
驚きつつ、水をあげると、佐藤先輩はそれを一気に1リットルくらい飲み干し、「俺、住むところを探してるんです。屋久島に住みたいんですよ」と言い、辺りをちょっと見渡すと、
「じゃ」と言って、酒の瓶を置いて帰っていったという。
この場合、探し当てたかったのは野々山さんなのか、住宅物件なのかは不明だ。
こうして書いていくと、佐藤先輩には恐ろしく強靱な「間違う力」が備わっていたことがよくわかる。
あまりに破天荒だったため、現役時代にさして業績は残していない。何かやる前に「これは本物の探検なのか?」と考えてしまうせいだろう。
活動家というより思想家だった。
ただ一つだけすごい記録を作っている。
奥多摩かどこかの洞窟に行ったときだという。A穴とB穴という別々の二つの支道に地底湖が見つかった。
「これはもしかしてつながっているかも」ということになり、
色水か何かを流したところ、たしかにAとBの地底湖はつながっているとわかった。
すると、佐藤先輩は「俺はここを潜る」と言い出した。AからBまで素潜りで水中の通路を抜けるというのだ。
あまりに無茶である。AからBまでは何メートルあるかわからないし、途中で人が通れないほど細くなっている可能性もある。
迷路になっているかもしれない。岩に身体がひっかかったりしたらどうするのか。ほぼ真っ暗闇の中、Uターンすら困難だ。
スキューバ・ケイビングは酸素ボンベを背負っていてもひじょうに危険とされているのに、それを素潜りでやるというのだ。
まわりは当然制止したが、言い出した先輩は聞く耳をもたず、ロープを腰に結わえてAの地底湖に飛び込んだ。そしてBの地底湖から見事に浮上した。
それが「地底湖素潜り11メートル」の日本記録だ。
しかし、正直言って私も11メートルだったのか記憶が曖昧だ。なにしろ、地底湖素潜りなんて誰もやらないし、この話を聞いたケイバ―誰もが「それは日本記録にちがいない」というから
「日本記録」と言っているだけらしい。公式記録でもなんでもない。誰もこの記録を塗り替えようと試みもしない。
でも、この破天荒な記録に先輩のラジカルさや間違う力が存分に発揮されているのはたしかだ。
この前、私は「またやぶけの夕焼け」という少年小説を出した。
「カッチャン」という一風変わったガキ大将の下、子供たちが冒険、探検、野球、魚捕り、プロレス、ゴルフなどを繰り広げる。
カッチャンの口癖は「××は遊びじゃねえんだ!」である。「魔球を投げたい」と思ったら、何時間でも投げられるまでやる。それがカッチャン流だ。
このカッチャンというキャラクターには色濃く、佐藤先輩が投影されている。
昨日、先輩の弟さんから「兄は実は心臓に持病があった」と聞いた。
先天性の心臓肥大症で、小学生のとき心臓手術を受けていたらしい。ラグビーを高校でやめたのも一つにはそれが原因だったという。
驚いてしまった。先輩は並外れた体力と根性の持ち主で、冬山もガシガシ登っていたし、誰もそんな話を聞いたことがなかったのだ。
あえて推測するなら、先輩は「病気の話は人にはしない。それを言い訳にしたくない」とラジカルに決めていたのではないかと思う。
先輩の戒名は「天心院探道英照居士」。
ご家族の方々が先輩の人柄を偲び、先輩が心底好きだった「探検」の「探」の字を入れたらしい。
またいつも天心(純真)に道を究めようと努めた先輩の性格を見事に現している。
探検の求道者にして間違う力の大家・佐藤先輩はもういない。
でも先輩の精神は私たち後輩とともにあり、また、あらねばならないと思うのである。
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Comment
・・・・くすっと笑って、読み終えたらナミダが。
先輩のご冥福をお祈りいたします。
小学校、中学校、高校の途中まで同じ学校に通いました。
家が近所だったので、よく遊んだ。
佐藤は新日鉄堺工場の偉い人の息子だったので、大きな広い家に住んでいた。庭が広かったので、戦争ごっこをしてよく遊んだ。
中学校では、佐藤はアイスピックを人に突きつけるふりをして、寸前にアイスピックの先を自分の方に向けるようなきわどい事をしていた。
僕も面白がって真似をしていると先生に見つかって、僕だけ怒られた。
また、校舎の3階から雨戸井を伝って、1階まで降りるという遊びをしていたら、対面の校舎の先生から呼び出しがかかり、みんなで怒られた。
他にもいろいろ悪いことをやってた。
中学校の時に同じバスケットボール部に入った。
当時は1学年19クラスあり、入部する人数も120人くらいいた。
中学1年生は、ボールは触れず、2年生のしごきに耐えることが全てだった。僕と佐藤は、問題なく耐え抜いた。
毎日の練習でバスケがうまくもなった。
3年生の夏前に佐藤と僕はクラブをやめた。佐藤がやめた理由はよくわからない。
高校受験で佐藤とともに清風高校に入学した。同じクラスだった。
佐藤は”バロム佐藤”と言われていた。(バロムワンが中学のころはやった)
清風高校では、高圧的な伊丹という先生がいて、授業中は非常に苦痛だった。これも佐藤とともに耐えた。高校ではクラブに所属せず、遊んでいた。
高校では友達みんなで自転車を買って、紀伊半島1泊2日でどこまでいけるか競争をやっていた。佐藤は堺から潮岬まで行った。僕は串本止まりだった。
高校2年の夏、新潟から沼津まで自転車で縦断した。途中、富士山に登った。
そして、僕は関西大学の山岳部に入った。
佐藤は国学院久我山でラグビーをした後、早稲田大学の探検部に入った。
4年生の時に僕は山岳部をやめて探検部の西表島の仲間川と仲良川の横断に加わらせてもらった。ヤシガニを食してうまかったのは今でも覚えている。
お互い社会人になって、家庭を持ち子供を授かった。
8年くらい前に、家族同士で八ヶ岳近隣のペンションに泊まった。
また、たまに会って酒を飲んだ。お互いに状況を説明する程度でそれ以上何も言う必要がなくお互い納得していた。
そして、佐藤は逝ってしまった。
ありがとう。
佐藤さんは國學院久我山に途中入学でラグビー部に入ったんですか。それもすごいですね。
西表島は、佐藤さんが一年のとき濁流で死にかけた場所ですね。
あの話は何度も聞きました。
でも、佐藤さんは西表が好きで、何度も通ったんですね。
私は佐藤さんに二十年近く会ってないまま、佐藤さんは逝ってしまいました。
本当に残念です。
高野さん
違っていたらすみません。
その方はもしかしたら子供を連れて無人島へ行く夏休み企画をなさっていたことは
ありませんか?大阪で。だいぶ前ですが。
ムスメが小学生の時一度参加させたことがあって
ふと思うと早稲田探検部だと聞いたような。。。
お名前が思い出せません。
そのツアーは大分県の無人島行きだったのですが
各自の持ち物は寝袋とお米とナイフだけ。
台風で食料が来ず、持って行ったお米だけと野菜だけでしのいで
予定より2日遅れて帰ってきました。
子供はクサ~くなって無事戻ってきましたが。
主催の方がヘラクレスのような美丈夫だったことだけ覚えているのです。
当時私はすごく忙しくてあまりはっきり覚えていません。
お悲しみのとき、唐突に失礼しました。
佐藤先輩は船会社に勤務していたので、別人だと思います。
もっとずっと上の先輩で、そういうことをやっていた人はいましたが…。
そうでしたか・・・
すみません。
本で読んでいたので、ラジカル加藤さんは何かもう他人ではないような感じがします。
水泳のくだりは何回読んでも笑ってしまいました。
ご冥福をお祈りいたします。
追憶。
佐藤が「結婚する」と言って、可愛らしい女性を大阪に連れてきました。
我々は、佐藤がいかに「常識外」なヤツかを彼女に力説し、「考え直すならまだ間に合いますよ」と忠告しましたが、彼女は、我々が話す佐藤の武勇伝を、ただニコニコと微笑みながら聴いていました。
佐藤は長男に、「いかづちまる(雷丸)」という名前をつけるというので、私は真剣に止めました。多分、周りから猛反対を受けたのでしょう。
ご子息は立派な「別の」名前でした。
昨年の夏、焼き鳥屋で飲みながら名前の由来を佐藤に教えてもらいました。
三歳の娘さんは、お通夜で私に「こんばんは」と言ってくれました。
私は「えらいねー」という他、言葉がありませんでした。
佐藤は、三人の大事な家族を遺して唐突に逝ってしまいました。
雷丸(いかづちまる)ですか。それはまた佐藤さんらしい…。
息子さんと娘さんには何か声をかけようとしたのですが、言葉が見つかりませんでした。息子さんはでも佐藤さんのように奥に熱いスピリットを秘めているように思いました。強く生きてほしいと思います。
佐藤君とは、小学5・6年が同じクラスでした。
当時、小学校は1学年7クラスありましたが、グランドが非常に
小さく、対角線に50mのラインを引くのが精一杯でした。
運動会も、午前中に奇数学年、午後に偶数学年に分けて行われました。
そんな学校でしたので、当然、休み時間には校庭は子供で溢れかえっておりました。
彼とはいつも、廊下や階段の踊り場で遊んでおりました。
小5の時「暴力団もも組」なる物を結成しました。
その団体の唯一の行動は、半ズボンで剥き出しに、
なっている、フトモモを平手で叩き合う事でした。
幹部の彼に、三下の私は、よく叩かれ、そして、泣かされました。
小6のある日、辞書を忘れ困っていた私に、彼は、親切にも
辞書を貸してくれました。
その時は「なんて良いやつだな」と思いましたが、その辞書は、
彼が図書館に忍び込んで、無断で拝借してきた物でした。
授業中、先生に見つかり、私は先生に叱れらました。
その時、彼に助けを求めましたが、彼は自分の勉強が忙しかったようで、
見向きもしてくれませんでした。
お通夜でこの話しを、当時の担任に話した所「辞書は持ち出し禁止だったから解かったのでしょう」との事でした。
小6の夏休み、H君のお父さん引率で、和歌山県との県境にある「友が島」へキャンプに行きました。
彼は、キャンプに来ていた同じ年頃の子供達とトラブルを起こし、
なぜか、私だけが、彼らに殴られました。
小6の9月15日、住んでいる町から、10km程の所にある
貯水湖「光明池」に行きました。 貯水湖なので擂鉢上になっており、
岸から数メーターで背が届かなくなっておりました。
岸辺で遊んでいる、私の目に、湖面に何かを投げている彼の姿を見つけました。 私の靴が湖面を物悲しく漂っておりました。
中学校は1学年19クラスも有るマンモス校でした。
彼の主導で、校舎の外壁・配管を伝って3階から降りて遊んでいると、
担任に見つかり、校内放送で呼び出され、叱られました。
高校1の夏、彼が堺に来るまで住んでいた、山口県光市行きました。
なぜか、山口県へ行くのに、大阪から近鉄特急で名古屋へ行き、そこで、
寝台特急「金星」に乗り、山口へ向かいました。
現地4泊中、2泊は国民宿舎、2泊はキャンプする事になりました。
今思えば、私と彼との間で「キャンプの定義」について大きな違いがありました。
ボーイスカウト出身の私は、キャンプとはキャンプサイト又は地権者許可を得た場所でテントを張る事でしたが、彼は、屋根の無い所で、寝る・自炊する事で場合によってはテントも不要のようでした。
私は、テント無しにキャンプ(野宿)するのは無謀と主張しましたが、
彼の、「雨は絶対に降らない」との一言で、彼の主張が通りました。
彼の計画は壮大で 彼が住んでいた社宅の裏山(地権者不明)に、
エンピ(小型スコップ)2本で 2MT X 3MT 深さ1.5MTのタテ穴を掘り、そこで、2泊する予定でした。。。
(インパール作戦を彷彿とさせました)
この旅行で「トリス」の味を覚えました。
高校2の春、彼は東京へ引越しました。
高校2の夏、新潟県直江津から、静岡県沼津まで、自転車で縦走する事になりました。
彼が計画に参加しておりませんでしたので、計画は順調に進み、テントを二張り購入し、万全な体制を整えてました。
彼とは、長野駅で合流し、一緒に直江津から南下しました。
計画では、5時起床 自炊 徹営 移動の予定でしたが、8時頃まで寝たりして、起きると、テント周りが釣り人で一杯だった事もありました。
途中、私を除く、4名は富士山を登頂しました。
この旅行で「オールド」の味を覚えました。
22歳の夏、彼と探検部の仲間、そしてA君とで西表島へ行きました。
当時、既に働いており、私は、彼らを見送りにいった大阪南港フェリーターミナルで「心底羨ましい」と思いました。
その半年後、私は、会社を辞め、ヨットでオーストラリアに行き、
オーストラリアに住み、沖縄のダイビングショップで働きました。
彼を追い越そうして。。。
もし、あの時、南港に見送りに行かなければ、私は、別の人生を歩んだ事でしょう。
彼が、結婚しました。本当に驚きました。
また、奥さんが普通の女性だったことも驚きました。
彼が、「会社を辞めて南極に住む」と言ったほうが驚かったと思います。
2011年夏、彼が堺に戻ってきました。
自給自足の生活を目指して、山を購入したいと聞き、その山に、
無断でログハウスを建て一緒に遊ぶ事を夢見てました。
但し、一緒に住む事は考えもしませんでしたが。
2012年春、小学校の同窓会に彼が来てくれました。
30数年振りに会った友達は喜んでくれました。
2012年夏、彼を追い越す事も、そして、復讐を果たせずまま
彼は、逝ってしまいました。
いじめられっ子は、いじめっ子に、認められたかったのでしょう。
ハリガネハイツも思い出した!
臨海工業地帯の敷地に、細く長い金属をグルグル巻きになっている筒状(25mくらいのトンネルになっていて人がギリギリ入れる)のものが何本も横たわっていた。かくれんぼをして遊んでいるとき、佐藤はハリガネの中に入った矢上を力いっぱいハリガネを何本も真ん中に寄せて閉じ込めた。
腕力が無い矢上は自分の力で脱出できず、生きた心地がしなかったと
思う。
矢上には気の毒だが、結構面白かった!
いや~この追悼文、素晴らしい。
高野さんの筆はこういう人を描くとき冴え渡りますね。
河童団の加藤さん、ご冥福をお祈りします。
高野さんの作品に出会って一年半になりますが、先日、早稲田三畳、、を何気なく(3回目になります)購入して読んでいた矢先にとてもショッキングなお知らせでした。私のような直接関係のない一読者すらも悲しくなってしまう偉大な加藤さん、ご冥福をお祈りします。
河童団のくだりでは、可笑しくて涙が出てしまいましたが、今回読む時には違う涙になりそうです。
英ちゃんとは山口県光市の長尾台という社宅で幼少期を過ごしました。コメントでありましたが彼がご友人と裏山で野宿を体験された?あの長尾台です。当時父親がみな同じ会社で働いていて近所付き合いも濃くて、というか長尾台の数件が「大家族」のような雰囲気で行き来する時代でした。英ちゃんが小学4年のとき引っ越してしまってからはほとんど会う機会もなくお互い大人になりました。6年前くらいだったか、英ちゃんを親ネットワークから探し出し同窓会に誘ったんです。30年以上を経て再会でした。それはもう幼馴染にとっては「佐藤英一登場」はサプライズ。本当に感激した夜でした。やっと会えた英ちゃんがもう逝ってしまうなんて…正直信じられないのです。実は私たちは昨日1月15日、親ネットワークで英ちゃんの訃報を知り新年の今、みなさんより半年も遅れて愕然としている状況です。心筋梗塞だったとは‥数年前英ちゃんに聞いて高野さんの本を読み、私も水泳大会のシーンでは何度も大笑いしましたが、みなさんのコメントを読むうちにショックが少し癒されてきました。英ちゃんはたくさんの人にあの存在感を残して、突然逝っちゃったんだ・・光の同窓会ではちょっとかっこいいイメージのまま逝っちゃったね。ここまで人並みはずれた姿で間違うこと(笑)は見せなかったじゃない。静かにお酒を飲み、2次会のカラオケでは必ず「柔道一直線」。堂々と歌いあげてた。もうあの歌声が聞けないのだと思うと本当にさびしいけれど、光の私たちも決して忘れないよ、英ちゃんのこと。そして「佐藤英一」のことを語るこんなすばらしい色濃い仲間がいることを知ったから、、同窓会光も今はショック大きいけれど、落ち着いたら墓前に会いに行ってきたいと思います。