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ある天才編集者の死

公開日: : 最終更新日:2012/05/28 高野秀行の【非】日常模様

集英社文庫で私の担当を長らく務めていた堀内倫子さんが急に亡くなられた。
茫然自失である。
堀内さんは、私に影響を与えたという意味ではダントツの編集者である。
今でもまざまざと思い出すが、
7年前、西南シルクロードの旅で、奇跡的に帰国し、家に着くと、
FAXが一枚届いていた。
「『幻の怪獣ムベンベを追え』をぜひ、うちで文庫化させてていただきたく存じます。
ご連絡いただければ幸いです」
それが堀内さんからの最初のコンタクトだった。
私にとって最初の文庫化オファーだった。
ライター人生、崖っぷちからの奇跡的な復活だった。
「ムベンベ」を知っていたのは当時の集英社文庫のY編集長だった。
ちょうどコンチキ号のハイエルダールが亡くなったというニュースが流れたとき、
Y編集長は堀内さんに「そういえば、こんな面白い冒険の本があるけど知ってるか」と
私の本のことを話した。
堀内さんは「ムベンベ」を読み、面白いと思った。
Y編集長はまさか私がライターになっているとは夢にも思わなかったらしいが、
堀内さんがネットで検索してみたところ、高野秀行が全然マイナーながら本を何冊も書いていると知った。
他の本も読み、「これは行ける!」と思ったという。
そして私にFAXを送ったが、ナシのつぶて。
半ば諦めていた頃、私が帰国したのだった。
Y編集長と堀内さんの尽力で、『幻獣ムベンベを負え』が14年ぶりに日の目を見ることになった。
ところが、お二人の期待にこの本は全く沿うことができず、
さっぱり売れなかった。
それでもお二人はがんばって『巨流アマゾンを遡れ』を出したが、
これまた惨敗。
あまりに数字が悪いので、今後、私の本が文庫化されるかどうか不明になっていた。
そこへ堀内さんが「タカノさん、ワセダの三畳間の話を書きましょうよ」と言い出した。
「あんなのは単なる酒の席の与太話だから」と軽くいなしたが、堀内さんはしつこかった。
「絶対に面白い本になる!」と言い張り、私も根負けする形で書き出した。
連載するあてがないどころか、集英社文庫書き下ろしになるかもわからない。
「不完全な形で見せて却下されたら悔しいから」という理由で、
Y編集長にも見せないで、二人で進めた。
堀内さんの編集者ぶりは徹底していた。
私が「守銭奴といわし事件」とか「人体実験で15時間意識不明」といった話を書いて送ると、次の打ち合わせのときに、鉛筆で真っ黒になった原稿がかえってきた。
「ここは説明不足」とか「もっと気持ちをはっきりと!」とか
「季節はいつ? もっと具体的に」などといったいわゆる「朱入れ」である。
私は文芸上の師匠がいない。
それまで編集者に何か頼ったこともない。
最初のムベンベではいくつかダメだしされたが、それ以降は
一部の友人に知恵を借りる以外は、ほとんど自分ひとりで書いてきた。
そういうものだと思っていた。
だから指摘で真っ黒の原稿には少なからず驚いたし、ムカッともした。
何度も何度も打ち合わせをし、そのあとは飲みに行って、またあーだこーだと
終電が終わってからも続けていた。
彼女の言葉で私がいたく傷ついたこともあれば、
私のほうで堀内さんを怒鳴りつけて泣かせたこともある。
『三畳記』で堀内さんが口を酸っぱくして言ったのは、
「もっと演技を大きく」ということだった。
「タカノさんの文章は面白いけど、今は小劇場でやるような小さい演技。
でももっとたくさんの観客がわかるような大きな演技をしなきゃいけない」
プロレスで言えば、私のパフォーマンスは後楽園ホールでは受けるが、
武道館や東京ドームではきつい、といったところだろうか。
だが、私は「演技」という言葉に抵抗があって、
すんなり納得できず、酔っ払ってはよく口論になっていた。
無論、今ではよくわかっている。
もう一つ、堀内さんは「三畳記」のプロットにも強く意見した。
最初、私はバカ話の連発で行くつもりだったのだが、
彼女が「これだけじゃ物足りない。最後は恋愛話を入れてほしい」と強硬に要求したのだ。
いくら脚色するにしてもプライベートな話だし、
恋バナなんて、それまでの私には違和感がありすぎた。
だが、ここでも私が根負けした。
なぜなら、堀内さんは私よりも長い時間をかけて、この物語を考えつづけていたからだ。
何か思いつくと、朝でも夜中でも電話してきた。
ほとんど普通の編集者の業務の域を超えており、異常なくらいだった。
完成した原稿をY編集長に見せたところ、
「可及的すみやかに刊行すべし」という決断がなされ、文庫書き下ろしで世に出ることになった。
これまた最初はさっぱりだったが、三年後、酒飲み書店員大賞を受賞して突然売れ始めた。
「三畳記」から私の他の本を読む読者も激増した。
まさに私にとって、ターニングポイントだったといっていい。
その後、堀内さんは、同じように、私の酒の席での話を聞いては、
「それ、絶対面白いから、書いてよ!」と言った。
私はいつも、「こんな話が?」と気乗り薄だったが、やっぱり根負けして書いた。
それが『異国トーキョー漂流記』であり、『アジア新聞屋台村』だった。
私のトーキョー三部作は、まさに堀内さんのプロデュースによるものである。
途中から、小説すばるの若い編集者Iさんが参加して、堀内さんとダブル担当だったが、
引っ張っていたのは堀内さんである。そしてIさんも堀内さんの仕事ぶりを学んでいくことになる。
最後に一緒に作ったのは『怪魚ウモッカ格闘記』だった。
私がインド入国に失敗し、まぬけにも東京潜伏していたとき、
いち早くほくそ笑みながら「これは面白いから、早く書いて」と非情にも言ったのも堀内さんである。
堀内さんは、間違いなく、天才編集者だった。
ただ、いろいろ事情があり、文庫専門の編集者だったから、
その能力を存分に発揮する機会をあまり持たなかった。
結果的に、堀内さんの才能と情熱を私だけが一心に受けたんだと思う。
堀内さんは天才だったから、情緒も不安定なときが多く、同じく情緒が安定していない私と
実によく衝突した。
私は自分の親以外で、こんなにも激しく繰り返し言い争った相手はいない。
私がいちばん苛立ったのは、彼女が原稿の朱入れで、私そのものの文章で
「こう書くべき」と入れてくることだった。
まさに私の文体で書いてくる。
俺が書き手であんたは編集者だろう、どうしてそこまでやるのかと思った。
堀内さんの答えはこうだった。
「だって、私に高野さんが憑依するから」
頭がおかしい。そうとしか思えない。
だが、長く付き合っているうちに似たような現象がこちらにも起きるようになった。
原稿をどう書いていいかわからないとき、
「堀内さんならどう言うだろう?」と考えると、彼女の言うことがすぐにわかるのだ。
鉛筆の字が見える気すらする。
それがすなわち「答え」なのである。
もはや原稿を見せる必要さえない。
私にも堀内さんが憑依するからだ。
堀内さんが担当でない仕事、例えば最近の『アジア未知動物紀行』や『メモリークエスト』も
そうやって書いていったのだ。
今、呆然としながら、いちばん残念でならないのは、
私がメジャーになっていないことだ。
正直言って、今まで本気でメジャーを目指したこともないし、なれるとも思ってなかったのに、堀内さんが元気なうちにメジャーになりたかったと今、痛切に思う。
「私があの人を育てたのよ」と堀内さんに言われるのはシャクだが、
言われてみたかった。
ほんとうに、ほんとうに、それが心残りである。
こんなことは、私がブログで書くべきでないことかもしれない。
でも今の私には、その当否すら判断がつかないので、そのまま書いてしまった。
関係者のみなさん、読者のみなさんを困惑させたなら申し訳なく思います。

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