大脱出記を生かすも殺すも表現次第
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高野秀行の【非】日常模様
なぜかよくわからないが、小説では「表現」や「いかに書かれているか」が問題とされるのに、
ノンフィクションとなると書かれている内容ばかりが注目され、書かれ方や表現方法については
話題にもならない。
実際のところは、ノンフィクションだって小説と同じくらい表現は大事だ。
そのかっこうの例に最近行き当たった。
昨年、一部でひじょうに話題になったヨーゼフ・マルティン・バウアー『我が足を信じて 極寒のシベリアを脱出、故国に生還した男の物語』(文芸社)
を、
ようやく先週読んだ。
第二次大戦中に捕虜となったドイツ軍将校がシベリアの東端の強制労働の炭鉱から脱出、3年以上かけてソ連を横断し、
イラン国境に到達するまでの大脱走劇で、世界的なベストセラーにして、ハリウッドで映画化もされているという。
なぜかこんな話題作が文芸社から「自費出版」されており、入手にひじょうに苦労した。
ネット書店が発達した今日、「入手に苦労する」という一種の「贅沢」を味わえたのはよかったが、
内容はと言うと、「自費出版」の名にふさわしかった。
シベリア強制収容所からの脱出といえば、かつてスラヴォミール・ラウイッツ『脱出記』(ヴィレッジブックス)という私のオールタイム・ベストテンに入る傑作ノンフィクションがあったが、
本書の出来は到底それに及ばない。
主人公のやっていることはものすごいのだ。
手元にないから断言できないが、『脱出記』ではたしか7人くらいで脱出し、半年くらいでインドに到達する話じゃなかったかと思う。
ところがこちらのドイツ人は3年2ヶ月をたった一人で逃走しつづけた。
(地元の人たちの世話にはなっていたが)
しかもほとんどの期間、彼はソ連の官憲に追われ(捕まったらまた強制収容所に戻されるか殺される)、飢えと寒さで死と紙一重のところにいた。
こんな凄い話はないのだが、残念ながら、構成はバランスがわるく、個々の場面でも描写や説明がどうにもわかりにくいし、首を傾げたくなるシーンが多々ある。
盛り上げ方がよくないので、内容に見合った感銘も受けることができない。
原文が悪いのか訳が拙いのか、おそらく両方だろう。
(ちなみに、著者はドイツでは有名な作家で、大脱走をなしとげた元ドイツ将校にインタビューし、それを元に彼の旅を再構成している。)
体験があまりに特殊かつ貴重なので、読む価値があるかないかと訊かれたら、「ある」と答えるしかないし、自費出版としてはよくできている方だから、ケチをつけるのは気が引けるのだが、
まことに残念な話だ。
本書を読んで、「ペンは剣よりもよりも強し」という古い諺を思い出してしまった。
この大脱走に比べたら、その体験を一冊の本にまとめるなんて、大した作業ではない。
労力としては百分の一、いや千分の一くらいだろう。
なのに、物語を読むうえで決定的に差が出てしまう。
行為自体の凄さや貴重さまでが左右されてしまう。
後味がよくなかったので、口直しに石村博子『たった独りの引き揚げ隊 10歳の少年、満州1000キロを征く』(角川文庫)を読んだ。
すると、こちらは圧巻。
形態は『我が足を信じて』にひじょうに似ている。
第二次大戦後、ソ連軍が満州に侵攻、家族とはぐれてしまった10歳の少年が、
たった独りで千キロ歩き、日本へ脱出したというあまりにありえない実話を、作家が聞き取って再構成したものだ。
こちらは書き手の力量が桁違い。
主人公であるビクトル古賀(サンボの世界チャンピオンで、格闘技界の偉人)への聞き取りだけでなく、
周辺取材を徹底して行っているし、表現力も構成力も抜群だ。
『脱出記』に匹敵する歴史的名著と言ってもいい。
ただ、おそらくは、石村さんの「表現」は主人公であるビクトル少年の凄さの陰に隠れて
日に当たることは少ないだろう。
誰だってこの本を読めば、ビクトル少年の超人的な活動について語りたくなる。
書き手の力量が高いからこそ、作品の完成度が高いからこそ、そうなる。
ノンフィクションというのは、ダイヤやサファイヤの原石を切って磨いて商品とする作業に似ている。
商品の質は原石に大きく左右されるのだが、いくら原石がよくても研磨や加工が下手ならダメだし、
原石自体は大したことがなくても加工の腕が優れていれば、人々に感銘を与える「作品」となりうる。
あらためてそう思わせた2冊の大脱出記だった。
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