世界遺産や国立公園で生活するということ

知床が世界遺産に認定されたというニュースをテレビで見た。
そこに映し出される自然の美しさにうっとりしつつ、
ちょっと気になったことがある。
『世界遺産の中で生活するってどんな感じなんだろう』ということである。
ご存知のように世界遺産には『自然環境』を登録するものと、
『文化(主に建造物)』を登録するものとがある。
ラオスのルアン・パバン>などはその街並全体が登録されているということだが
これから発展しようという国にとって、その景観の破壊に対する規制は
かなり辛いものだろう。
いや誤解しないでもらいたいが、街並を保存するということは
観光行政上、大きな経済的メリットだと思うし、
個人的には保存された町を訪れてみたいとは思う。
しかし、そこで生活する者にとって、この制約は時としてかなり
やっかいなものだろうことは想像に難くない、ということなのだ。
まして発展途上国の中でもかなり後ろの方を走っているラオスの
ような国ならなおさらではないか?
そんなことを考えていたら、ふとジャングルでの経験を思い出した。


私が本拠地とするマレーシアにも2箇所の『世界遺産』がある。
マレーシア最高峰4095mのキナバル山を擁するキナバル自然公園とコウモリの大飛行で有名なグヌンムル自然公園。どちらも自然遺産である。
そしてどちらにも自然公園内で生活する少数民族がいる。
彼らは自然公園内で生活しているけれども、
生活に必要な採集や狩猟などの活動を認められている。
「ここは世界遺産に登録されたから君たち別の場所で生活してね」とは言えない道理だ。
以前ここでも書いたが、
先住民族がもっと文明を享受したいと考えることはむしろ当たり前のことで、
彼らを伝統的な生活様式に閉じ込めようとすることの方が傲慢である。
その時、私は先住民族二人をガイドとして雇い、マレー半島南部の国立公園である
エンダウロンピンの山中を歩いていた。
他の先住民族同様、ヘビースモーカーであるくせに山には抜群に強い二人は
重い荷物を背負ってヒーヒー言っている私と相棒をあざ笑うかのように
斜面をすいすいと登っていき、待ち時間でタバコをくゆらしていた。
川沿いのまるで整地されたかのような開けた場所に出ると、
ここをキャンプ地にしようと彼らは進言してきた。
以前欧米の自然保護団体のグループが大所帯で来たときのキャンプ地だという。
確かに、水場も近く快適そうな場所であるので否はない。
シートを敷いて、フライシートを張るとキャンプ完成。
お湯をわかして飲み物の準備だ。
聞くともなしにその自然保護団体のことを
聞いていると、彼らだんだんと調子が出てくる。
「あいつら、薬草のことを教えると、大喜びで取っていくんだ。
それもこっちが必要な量だけ考えて採っているのに、おかないましに
次から次と採っていきやがるんだよ。こっちが親切で教えてやってるのにさ。」
「虫除けの草なんか、この先半年ぐらい、どこで手に入れるか心配なくらい
持って行ったよ。」
貴重な生活物資をどんどん持っていかれたことについて憤慨しているのだ。
「ただまあ、あんまり喜ぶんでこっちも黙っていればいいのに、
ついいろいろ教えたのも悪いけどね」
と反省も忘れない。
「でも一度ひどく怒られたよ、あいつらを喜ばせようとしてさ、すごく珍しい
野生ランの花を採ってきてあげた時。これは町で売ったら500リンギット*はするんだ
って言ったら急に怒り出したんだよ」
そして二人は顔を見合わせて不思議そうにつぶやいた。
「あんな花、なんの役にも立たないのに」
絶滅寸前かどうかより、なんらかの価値があるかどうか。
生活者にとってはそっちの方が重要なんだ、ということを
改めて実感したのである。
彼らの疑問もよーくわかる。
国立公園や世界遺産で暮らすのも結構大変である。
* 約1万5千円

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