ヒルといい、ゾウといい、ジャングルに恐怖感(あるいは嫌悪感)を抱かせる話ばかり書いてきた。
これでは『密林ジャーナル』を立ち上げた意味が無い。
言うまでも無く、ジャングルは、本当に素晴らしい場所なのだ。
私の生活するマレーシアの首都クアラルンプールは、マラッカ海峡に面したマレー半島西海岸から東に70kmほど入ったところにある。人口200万人ほどの近代的な大都市である。世界一高いビルディング(ペトロナスツインタワー)を筆頭に多数の超高層ビルが建ち並び、モノレール、地下鉄も走るとなると、東京と較べても遜色ない。異なるのは町中の木の多さと、その高さだろうか。
しかし一歩郊外に出ると景色は一変する。高速道路の両側は森林ばかりになる。
ただしこれはゴムか油ヤシのプランテーションで自然林ではない。
クアラルンプールから西以外の方角に高速道路を1時間から1時間半ドライブし、どこか適当な料金所でおりる。するとあなたはすでに猛獣リストに掲載されているトラ、黒ヒョウ、ゾウ等々(ジャングルでばったり出くわしたくない獣)の活動圏内にいるという寸法だ。これぞ熱帯アジア!スリルも申し分なし。もっともトラなどはマレーシア全土で500頭を割っているということだから、出会える方がラッキーなわけだが。
ちなみに、上方から見下ろすジャングルは一本一本の木が小さなドームを形成し、それがモザイクのように連なっている。ブロッコリーを繋げたようなイメージである。ただし、均一の樹種ではなく、言ってみれば雑木林なので、それぞれのドームの色合い、テクスチャー(葉っぱの大きさの違いによる雰囲気など)が微妙に異なり、密林の名に恥じない奥深さを感じさせる。一体どんな生き物が息をひそめているのか、想像するだけで武者震いを覚えるような光景だ。
ジャングルのエントリーポイント近くに車を停め、装備をチェックしたら深呼吸して出発だ。すすきのようなイネ科植物で手を切らないように気を付けながら、かなりしっかりと踏み固められた跡を辿って森に入る。光の充分届く入り口付近を過ぎると、下草もシダなどの柔らかな植物が多くなる。
下枝のないまっすぐな大木が並ぶ様は、雑木林というよりもむしろ、ちょっと手入れの悪い杉林といった趣だ。下草もまばらで、思いの外すっきりとした印象である。高木の樹冠に覆われていて地表まで光が届かないのがその理由だが、鬱蒼とした藪をかき分けかき分け進むような『密林』を想像しているときっと肩透かしを食うだろう。
先へ進もう。日本の山野ではまずお目にかかれないヤシ科の植物などを確認しつつ、奥へ奥へと歩を進める。傍らには高さが2mもある巨大な板根がある。大きなショウガ科の葉が道を遮っている。ターザンが使うような太いツル植物が高木から垂れ下がっているのも見える。鳥の声や、何かの虫の鳴き声がとぎれとぎれに聞こえている。確かに熱帯っぽい。
しかしジャングル初体験のあなたの率直な印象は「熱帯ジャングルってこの程度のもの?」
さらに足下の地面のコンディションがその感想を助長する。
『分厚い落ち葉の層がびっしり地表を覆って腐葉土になり、それが熱帯の雨と湿気を吸って、一足ごとに足首までずぶずぶと沈む。一歩間違えると腐葉土に隠れた底なし沼に吸い込まれて命はない』なんてところは全くない!
何日か続いた晴天のせいか、栄養のほとんどなさそうな白っぽい、あるいは赤茶けた土は、砂を混ぜて踏み固めたようで、想像以上に乾いている。そしてその上に落ち葉がさらりと敷き詰められているのだ。歩きやすさで言ったら、日本の春山よりよっぽど歩きやすいほどである。
「熱帯ジャングルも大したこと無いな」という軽い失望を覚えつつ、先へ進むと、やがて少し開けた場所に出るだろう。木が少ないわけではなく、明るい場所でもないが、地形の関係で開けた印象の空間だ。涸れ沢のほとりかもしれないし、岩がごろごろしている小さな谷間かもしれない。いずれにしても360°見通しが利く、まるで小さな野外劇場のように開けている場所だ。水を一口飲んで汗を拭きながら周囲を見回してみると、遠近感がおかしい。すぐ近くにあるはずの大木が、はるか彼方に屹立しているように見える。遠景であるはずの木の樹皮の模様が目の前にあるかのようにくっきりと見える。緑の濃さがさっきまでとまるで違い、瑞々しい。一枚一枚の葉が自己主張をしているように活き活きとして見える。乾いた落ち葉の白茶けた色が、ここではうっすらと紫がかって艶やかである。何もかもが突然、強い生命力を持って迫ってくるようだ。今までただ漫然と聞こえていた鳥や虫の声が一羽、一匹の存在感を持って力強く響いている。そして、それはまるで真空のような静寂の中に吸い込まれていく。
前も後ろも間違いなくジャングル。そして目に見えないその先も果てしないジャングル。街とのリンクを完全に遮断されてしまったことにその時愕然として気が付く。まったく想像もしなかった突然の孤独感に少しだけ恐怖を覚え、
「あーこれがジャングルなんだ!」と感じる至福の瞬間である。
「熱帯ジャングルへようこそ!」ここからが本当のジャングルである