タバコの最もおいしい時

タバコというのは、有史というスケールでみると
ほんとにごく最近になって旧大陸に持ち込まれた習慣である。
これが本当にあっという間に広がった。
戦時中に配給でタバコが配られたというくらいだからある種
必需品だった時代もあるわけで、隔世の感ありだ。
私は馬鹿げた理由で10数年前に止めたのだが、お酒の席でおいしそうに喫む人を見ると
うらやましい気がするときもあるし、数年に一度はすってしまう夢を見る。
しかしあのときほどタバコがうまそうに見えたことはない。


 
1993年か94年だと思う。
その年、私は当地の大学の研究者と共に水草の採集に燃えていた。
日本では単なる熱帯魚ブームから水草水槽というあたりにまで趣味が先鋭化していた。
マーケットはある。ということで知り合いのマレーシア藻類学者と
新種の淡水藻類、水草を求めてマレーシア各地の湿地を飛び回っていた。
今は上流域の開発で見る影もなくなってしまったが、そこは緩やかな山の斜面に
まるで棚田のように存在する複数の湿地帯の集合だった。
車の入れる場所の問題で、下の段から徐々に採集をしていこうという計画を
立てて、4人で最初の湿地に入った。
採集は順調に進み、2段目の湿地に入ったころから天気が崩れだした。
湿地の中ほどにある木の生えた小さな丘をベースキャンプに決め、
フライシートを荷物と寝床を覆うように張った。
湿地の水際から20メートルはある。
登るのに苦労するくらいの斜面なので高低差も相当ある。
ぽつぽつと降り始めたので、キャンプに避難し夕食の準備を
始めていると、突然来ましたバケツをひっくり返したようなスコールが。
しかし、この位の雨は驚く必要はない。小一時間降ると雨は嘘のように
上がってしまう。水位も急激に上がったが全く問題ない距離だ。
焚き火を囲んで楽しい夕食をとっていると、
水音がずいぶん大きく聞こえることに気がついた。
トーチライトで暗闇を照らすと、ほんの目と鼻の先を猛烈な激流が
流れているではないか!しかもどうやら水位は上がり続けている。
その夜、4人はまんじりともせず、激流をみつめて過ごした。
自分達のいる丘の一部が激流で崩れる音に耳を澄ませながら。
翌朝、水位は変わらないが流れがゆるやかになったのに力を得て
大急ぎで撤収を始めた、フライシートを結んだ木をよく見ると
高い枝に水草が絡まっているのが見えた。
ここまで水位が上がることがあるのだろう。
最後に養生シート(あの青オレンジのビニールシート)を
畳もうと捲り上げると、夜中のうちにシート下に避難してきたのだろう、
ムカデやヤスデ、サソリそのほかわけのわからない昆虫が群れをなしていた。
はやくこの場を離れたいというモチベーションはあがったがどうすることも出来ない。
午後になって水がかなり引いたと見るや、言葉少なく、うなずきあって
荷物を担いで濁った水に突入した。
腰までの水と泥の中を足先の感覚だけを頼りに対岸へ向かって進んだ。
そのうち、少し深い場所に足を取られて、前のめりに泥水に突っ込んだ。
水草を保存した空気の入った容器が水に浮いてしまい、体を起こすことが
出来ない。バッグのウエストストラップを留めているという過ちもあった。
ここはほんの腰までの深さであるが足も立たなければ、顔も上げられない。
溺れる!と思った瞬間、足が何かにひっかかった。
そして見苦しいほどの大暴れをして立ち上がることが出来た。
他の3人もその場では大笑いしていたが、同じような苦労を何度かした上で
ようやく車を止めてある対岸に到達することが出来た。
ずぶぬれの上、泥だらけの体を思い思いに車に預け、車内から
ミネラルウォーターを取り出し一息に飲み干した。
そして一人が車内から新しいダンヒルの箱を取り出すと、もったいぶった手つきで
セロファンをはがし、金色の紙を丁寧に切りはずした。そして私以外の3人は
本当にうまそうに一服つけるのだった。
生きててよかった。
まぎれもなく一番うまそうに見える一服だった。
それでも手を出さなかった意思の強さを称えるべきか
もっともうまい時を逃した偏屈さを哀れむべきか、
判断はお任せする。

“タバコの最もおいしい時” への5件の返信

  1. AGENT: Mozilla/4.0 (compatible; MSIE 5.0; Mac_PowerPC)
    まさに労苦をたたえる紫煙ですな。
    僕は体にあわないので吸えませんが、そこに冷えた缶ビールがあれば彼らと同じ空気感をかもす自信はあります(笑)。
    もったいぶってプルトップあけますよ〜。

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