生物多様性という言葉についての錯覚

はじめに 生物多様性という用語が日本で市民権を得たのは、1992年のリオデジャネイロの国連環境会議のころからである。遺伝子資源や環境問題との関わりで、社会的な問題意識が高まってきたために、生物多様性という用語がマスコミにもしばしば取り上げられるようになった。

これは『植物からの警告 生物多様性の自然史』(岩槻邦男著 NHKブックス)の
序文の引用である。
「生物多様性」なんて言葉、最近でこそようやく聞かれるようになったけど、
日本で市民権なんか得ていないのでは?とお考えになった方が多いと思う。
驚くなかれ、これは1994年6月25日第一刷発行の16年前の本だ。
今ではすっかり忘れられてしまったが、メディアが生物多様性という言葉を
取り上げた時期が17,8年前にあったということなのだ。
それについてはこちらで
人とは忘却の生き物なのである。

生物多様性を考える

LINKにも入れましたがトシの会社で、「生物多様性(条約)」情報サイトを立ち上げました。
若手研究スタッフのS君が担当します。
今後いろいろなメディアで「生物多様性」のことが取り上げられていくとは思うのですが、
ここは生物多様性に関わるプレイヤーとしての視点でいろいろ発信していけたらと
考えておりますので、どうぞごひいきに。
『NGS通信−生物多様性を考える』、うわっ堅いタイトル(笑)。

生物資源の未来(つづき)

「地球の未来は生物資源が握っているわけじゃないですか!」
全く同感である。
石油代替エネルギーや素材などの研究者は生物を利用した研究をしている。
やがてその成果が実を結ぶようになるだろう。
その時エネルギーにしても、食料にしても、どれだけ多くの、
そしてどれだけ多様な生物資源を持っているかが勝負になる。
自明である。
もちろん栽培や養殖によって確保できる種類や量もあるだろう。
しかし海や熱帯雨林が抱えている生きものの量や多様性には
到底敵わないのだ。
また大事な条件だが、生物資源の利用が一回きりであってはならない。
何回も何回も繰り返して使える方法を考えないといけないのだ。
そして残念なことに生物資源の維持にはコストがかかる。
いかに世のためとは言えそれを資源を保有する国(多くが発展途上国)が
自分たちでまかなうことはやはり難しい。
利用によって得られる利益(主に先進国の)を
保有国に還元していかなければならないのだ。

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