我が家の子供たちは、自分で十分歩けるようになったと
判断されると父親の仕事場に連れて行かれる。
親と同じスピードで歩くわけにはいかないが、自分の飲み物を
背負って自分の足で歩く。
大人でもちょっと不節制の人はきつく感じるジャングルを歩くのだが、
彼らはやはりエネルギーの塊だ。休憩地点では疲れも忘れて水遊びをする。
ヒルやトカゲ、蛇などに遭遇し目を丸くするが怖がらない。
帰りの車の中ではどんなに揺すっても目が覚めないくらい熟睡である。
買い物に連れて行くと、めんどくさいとぐずぐず言う
彼らが、ジャングルでは泣き言を言わずに必死についてくるから不思議だし、嬉しい。
4歳で往復3時間(休憩時間を除く)、やっぱり気の毒なのか…
アイデンティティクライシス
現在マレーシア滞在2週間少々と言うところ。
イスラム教の祭日が金曜日にあり、先週末は三連休だった。
結局三日とも事務所に来てだらだらと仕事をしてしまったのだが
そこで大変なことに気がついた。
続・トルコのもう一つの顔
9月7日のエントリーでご紹介した傑作『トルコのもう一つの顔』(1991)。
今でも売れ続けているこの本の著者小島剛一氏は、出版後消息がわからない状態が続いていた。
ところが熱烈な愛読者である高野秀行氏が自身のブログ『ムベンベ』で絶賛したところ、
なんと本人からコメントが届いたのであった。
それから氏と小島氏の交流が始まり、私もどさくさにまぎれて輪に入れてもらった次第である。
さて、その小島氏がとうとう続編を発表することになった。
あす発売の『旅行人 161号 2010年上期号』である。
公式サイトには編集者の興奮ぶりがうかがわれるコメントがある。
短期集中連載
続・トルコのもう一つの顔 一挙50枚掲載!
漂流するトルコ(1) 小島剛一
みなさんにもぜひ手にとっていただきたいと思う。
私もすでに注文した。
『トルコのもう一つの顔』もまだの方はぜひ。
生物多様性ビジネスセミナー
最近本当に生物多様性(条約)関連のイベントが多い。
来年のCBD COP10名古屋開催を踏まえてということなのだろうが
「生物多様性?なにそれ」という感じが多かった頃からすると
一般の人にもわかりやすいニュースが増えているからだろう。
193番目の批准国
生物多様性条約に批准している国は11月19日現在、192カ国である。
12月10日に193カ国目として批准するのが、ソマリアだ。
治安の悪いアフリカ諸国の中でも、スーダンなどと並んで最も危険な国の
一つと言っていいかもしれない。
少なくともトシのイメージは「危ない国」につきる。
西南シルクロードは密林に消える
成田空港第二ターミナルの搭乗ゲート側-出国審査を終えた後のエリア-で
コミュータートレインに乗って移動した先には、三省堂の小さなお店がある。
20坪に満たないような小さなお店なので、文庫本の棚は非常に小さなものだが
どうやらここには高野秀行ファンがいるらしく、常に彼の集英社文庫の作品が
充実しており(売れないってこと?ではなさそう)嬉しく思っていた。
水の力
今日の夜行便で日本へ戻ることになっているのだが
昨夜見たNHKプレミアムのニュースで、北海道や東北で降雪があったと聞いて震えがきた。
最近の日本の宿は築60年を超える木造家屋で、前回滞在時(10月中旬まで)でも
朝方はかなり冷えたのである。
夏掛けと薄手の毛布だけではやはりちょっと厳しいかもしれない。
ミャンマーが動いている(?)
読者の方はよくご存じのように、
当社は現在マレーシアとブータンにおける生物資源探索の許可を受けている。
「ほかの国への進出は?」と聞かれることが多いのだが、答えは「YES」だ。
もちろんどこの国にも無差別で進出するわけではない。
進出国の選択基準の一つに「人権問題を抱えている政府を選ばない」がある。
我々の仕事の結果得られた利益を資源国に配分する際に
非人道的であると批判されているグループを潤すことは
そのグループと同じように批判されることになるからである。
ちょっとわかりにくいか。
『放っておいても明日は来る』発売間近
以前報告した辺境作家高野秀行氏の上智大学講義が
「本の雑誌社」から対談集として出ることになった。
タイトルは
「放っておいても明日は来る。就職しないで生きる9つの方法」
著:高野秀行ととんでもない奴ら(本の雑誌社)だそうだ…。
熱帯料理人
実は大事な作家を忘れていた。
吉田よし子である。
「香辛料の民族学」(中公新書)「熱帯のくだもの」「熱帯の野菜」(楽游書房)など
熱帯を中心とした食用植物に関するたくさんの著作がある。
私が最初に手にした著作は「21世紀の熱帯植物資源」(米国科学アカデミー編)
(㈶農政調査委員会)で、吉田氏はご主人の吉田昌一博士と共同翻訳をしている。
東大農学部農芸化学科卒業後、農林省農業技術研究所に勤め、
夫の国際稲作研究所勤務にともない、1966年から84年までフィリピンに滞在。